2011年7月1日金曜日

日本を襲う金融の大津波にどう対応する? プランBに備えよ

日本を将来襲う可能性が有る金融の大津波、その状況は日本の価値暴落とそれに伴う経済・金融の大混乱である。具体的には、円安、国債の暴落(金利は上昇)、制御不能なインフレ、金融恐慌、経済の混乱に伴う大幅な経済の落ち込み、といった現象であろう。地震と津波は局所的な現象であったが、この大津波は確実に日本全土を襲い、そしてその影響は世界に波及する。


危機のトリガーから危機的状況へ

 では、そのような危機をもたらすトリガーとなる現象は何であろうか? 筆者は、図-1に示すような以下の二つの事象を、危機のトリガーとして想定する。
・国債暴落(=長期金利の急上昇)
・円の暴落(=為替の急激かつ大幅な円安)


 

1990年よりここまで赤字国債の発行を続け経済を維持してきた現在を例えれば、からからに乾いた藁の上に薪が積み重なった状況である。ここに上げた多くの危機のトリガーのうち一つでも本当になれば、火が付き燃え上がることは、想像に難くない。
 そのようなトリガーにより起こった危機は、どのように拡大していくであろうか。筆者は、まずは年率20%程度の円安・インフレといった状況に陥る可能性が大きいと思う。
 円安・インフレの進行と同時に国債は暴落する。そうなると、国民は金融機関の経営への不安を感じ、郵貯・銀行預金の引き出しや保険解約へ殺到する。更には、自らの預金の実質的価値が目減りすることを避けるために実物資産を購入する動きが強まり、インフレはさらに昂進する。
 金融機関のバランスシートが国債やその他債権の暴落で傷んだところに、預金者の引き出しが殺到することになり、多くの金融機関は倒産の危機に瀕し、その結果産業界に資金が回らなくなり、経済混乱から経済はマイナス成長、物価は上昇というスタグフレーションの状況に陥る。


危機的状況の逆進性

 このような金融・経済危機において最大の被害者は国民、それも弱者である。この20年における金融危機や不況は、国民にきわめて深刻な影響をもたらしたかと言えば、それはNOである。
 無論、低成長や低金利は多くの国民をじわじわと苦しめているのだが、個々の生活レベルを見れば所得が低下したもののデフレの恩恵もあり、必ずしも危機的な状況には至らなかった。しかし今回の危機で、その痛みをもろに受けるのは弱者、次にはある程度の資産を持つ一般的な国民である。インフレの進行に応じて年金や保障費が上がらなければ、その分実質的な生活が苦しくなる。企業倒産から失業も増加するであろう。倒産を免れた企業でも、平均すれば経済成長率の低下で、インフレに見合った昇給を実施することは難しくなる。

金融危機の津波は、弱者により大きな被害をもたらす、逆進的な災害である。年金や社会保障費で暮らす者に最も厳しく、次には倒産企業の従業員へ厳しい、そして倒産を免れた企業においても従業員の生活は、一様に厳しくなるのである。
 このような20%のインフレが仮に5年続いたとすれば、計算上物価は2.5倍、為替は250%の円安となる。そこまで行けば、国家債務も実質上半分以下になり日本の価値も相対的に調整され、経済は落ち着きを取り戻すであろう。
 消費税よりもっと強烈な、国民等しく課税するインフレーション・タックスの効果である。日本の実質経済規模も半分以下とは言わないが、80%程度まで減少しているのではないか(かなり当てずっぽうです)。1997年に金融危機に襲われた韓国に比べるとかなり深くて長い危機ではありましたが、さあ、ここから再出発という感じであろう。
 しかし、インフレの初期段階でそれに合わせ年金や生活保護、その他社会保障費を上げたり、金融恐慌や経済対策のため国債の発行を拡大したり、外貨交換の規制などを行うと事態は破壊的な状況に陥る。津波の被害は幾何級数的に拡大し、最終的にはハイパーインフレーションに陥り日本壊滅、世界経済は大混乱といった状況が予測される。
 それこそ原発が、圧力容器や格納容器を含め、一気に爆発したような想像を絶する状況になると思われる。
 こうなると、その後の危機の状況がどのような結末をもたらすかは、予想できなくなる。いずれにしても経済の混乱はより深く長くなり、政治的にも社会的にも、破壊的な混乱がもたらされる可能性が高い。

プランB 準備政策

 さて、いよいよこのような事態に備えるプランBを解説していこう。プランBは大きく災害に至るまでに準備する準備施策と、災害が発生した際に行う実施施策に分かれるが、先ずは準備施策を述べて行く。
 準備施策の中でまず重要なのは、日本の金融・経済システムおよび国家財政の体質向上施策であり、具体的には以下の項目が考えられる。

・増税と社会保障抑制の一体的改革により、財政バランスを良化させる。

・経済成長実現により経常黒字幅拡大をもたらす経済政策
 -新成長戦略の実施
 -政治主導による国内産業構造改革により過当競争抑制と国際競争力向上
 -徹底した規制・制度改革
 -国際的競争環境のイコール・フッティング
 -雇用流動性の向上
 -中小企業は弱者保護から強者育成へ
 これらはいずれも、現状政策課題に上がっているものの、実行局面において主として既存利害関係者の調整がかなわず、実効が上がっていないものが多い。
 それから、プランBの発動が想定されるような金融・経済状況において、現状の準備が十分でない項目は、以下のようなものがある。

・自治体破産法制の整備
 -現状自治体再建の法制はあるが、債権カットや破産管財の法制は無い。

・諸外国との相互依存関係を強化(特に対中国)
 -中国を始め諸外国の上質な人的・金銭的資源を、日本に取り込む(老人施設入居、企業での採用促進)
 -中国特定地域との相互関係を重点強化(華北部?)
 -日本の中国向けプライベートバンキングビジネスを強化
 -ASEAN(非華僑国)、インド、EUとの関係強化(近攻遠親)

・外貨獲得手段の維持・拡大
 -円安で競争力を増す製造設備の維持・拡大
 -対外国人向け観光施設・拠点整備
・外交的安定の獲得と財政・金融外交政策準備

・プランB実施諸政策の準備

・金と外貨の蓄積
 -現在の外貨準備1兆ドルは充分か検証要


これらの施策は、その多くが現状の金融・経済政策との協調が充分に可能なものであり、プライオリティを上げることで取り込み可能であろう。
 次は、プランBの内容である。内容については、図-2にまとめたようにその項目は多くの省庁にまたがり多岐にわたる。実施にあたっては、現在の復興庁設置でもたもたしているような状況は問題外。政府の関係各省庁のみならず、日銀や金融界を中心にした経済界とも緊密に連携した組織を構築し、運営にあたる必要がある。

 
そのような運営の中核となりうるインナー組織を、非公式かつ早期に立ち上げ、内容に関する議論と共に実際に起こりうる状況を想定した「演習」に取り組んでいくことが望まれる。
 また、重要なのはこのタイミングで長年出来なかった日本の産業構造と社会システムの改革を一気に行うことである。表の中では、低生産性産業の再編と抜本的な規制制度改革、そして優先順位に基づく緊縮予算の実施による全面的な行政サービスの見直しと再構築が、それにあたる。ここで重要なのは、そのような準備を事前にきちんと行っておくことである。そうでないと、各所から上がる要求の火の手に対して適格な対応が出来ず、結果的により混乱を大きく長引かせ、国民の不利益を大きくしてしまうからである。


最後に

 東日本大震災の復興にもたつき、原子力問題から全国レベルの電力危機が派生し、多くの製造業が国外移転を考える現状はプランBにとっては危機的な状況と言える。また、不穏な動きを強める中国は、軍部と現在の指導部が徐々に不穏な雰囲気を醸し出しつつあるさまは、1920年代から軍部が台頭した日本の状況を思わせる。
 一方で、太平の夢からいまだ抜けきれない日本は、当時の中国の状況に被るものが有るのではないか。このような迫りつつある危機に、日本の政治や企業、国民は未だ性善説を信じているように思える。それはそれで幸せなことであるが、政治が今の体たらくから脱し、リアリズムに基づいた政策を行わないと我々の日本の将来は危うくなると思われる。この課題提起が少しでも、そのような行動を前進させることを祈りたい。

2011年6月30日木曜日

日本2020年のシナリオ~金融の津波に襲われた時にどうする?

東北大震災とそれがもたらした津波は、想像を超えた破壊力を示すとともに、あらゆる側面における我々の準備・対応能力不足を浮き彫りにした。それでは仮に、財政破綻の懸念から日本が「金融の津波」に襲われた場合、我々はどのような対応を取るべきであろうか? 政権の中枢や霞が関の官僚を含め、ほとんどの日本人は「準備や対応」などもなく、それ以前の状況ではあるまいか? 筆者は、そうした問題意識に強くとらわれ、昨年の夏より日本経済の災害対策計画「プランB」の検討を多くの方々の協力を受けながら進めてきた。  そして現在、政治のリーダーシップが決定的に欠落し、災害からの復興はおろか復旧もままならず原発事故が暗い影を落とす中、未熟な政治の無策という人災が明白であるにも拘らず国民は本気で怒ろうとはしない。このような様子を見るに、いよいよこのプランBが必要となる可能性は高まっているように思われ、読者に公開することとした。

転換期を迎えた世界と日本の地位

 ベルリンの壁崩壊から東西冷戦が終結し、天安門事件を経て中国が開放経済に移行して20年以上が過ぎた。そして2008年のリーマンショック以降、世界のガバナンスは先進諸国を中心にしたG8体制から、BRICSに象徴される新興国を加えたG20体制に移行した。それは、図-1に示すアンガス・マディソンによるGDP推計を見れば、世界が大きく1820年の状況にリバウンドして行くことに他ならない。

 

そのような中、日本が世界で占める地位はどのように変化しているであろうか。それを推し量るため、日本、アメリカ、中国という日本にとって最も重要な三国間の相互経済依存度を、相手国が自国の輸出に占める割合としてグラフ化した図-2を見ると、日本の世界、特に中国に対する相対的な地位の低下が、一目瞭然である。




10年後に向けた日本のシナリオ

 転換期の世界において、ここから10年、2020年に日本はどのような姿になっているであろうか? 筆者が、昨年来各界のミドルからボランタリーな協力を受け、シナリオプラニングの手法を用い2020年に向けた日本の姿を4つのシナリオにまとめてみたのが図-3である。


 
 
 
 

米中が果たして「大人のG2」となるか「国家エゴの衝突」を招くか、日本は影響を与えることが出来るが、結果を決めるのは米中である。それに対して、日本の政治が「創造的改革と自立」に向かうか「現状維持とポピュリズム」に陥るかは、日本国民の選択と政治家の能力の問題であり、結果を決めるのは我々である。


日本の現状(財政)

 改めて、日本の現状をより詳細にみてみよう。先ずは財政から見ると、状況は極めて危機的である。日本の国債発行残高は900兆円を超え、対GDP比200%に迫っている。国債以外にも、地方公共団体の地方債発行残高は200兆円、但し国より不明朗会計の地方には大きな隠れ債務が有ると言われ(夕張市が破綻したケースでは、公表地方債残高187億円に対し総負債はその3倍を超える599億円であった!)実態はその2、3倍はあると思われる。
 過去、そのような国家負債を返済した例として、1947年から28年かけて返済した英国、1046年から28年かけて返済した米国の例が上げられる。これらはいずれも、財政黒字、経済成長、そしてインフレの組み合わせで返済した。

但し、このいずれの例も、第2次世界大戦終了後の経済成長とベビーブームという「上げ潮」の状況下であったことに、留意すべきである。人類史上かつてないスピードで少子化・高齢化が進み、デフレギャップに悩む「下げ潮」状況で巨額の国家負債から脱却に成功した例を、筆者は知らない。
 経済の低成長と人口ボーナスの減少により、ここまで国債の国内消化を支えて来た国内預金残高は、2,3年のうちに減少に転じる。郵貯、年金も同様の状況にあり、2013年から14年にかけて消化どころか、その保有する残高を売却する必要に迫られるようになることが、予想されている。これらの理由により多くの有識者は、国債の国内消化が可能なのはあと3年と予測している。
 そこに、震災の影響に電力不足・価格高騰が重なる結果製造業の海外流出が進めば、日本の経常収支は赤字となり預金残高の減少は、さらに早まることになる。国債そして円の大暴落という津波は、もう水平線に姿を現している。


日本の現状(経済・金融システム)

 それでは、津波を受ける日本経済と金融システムの現状はどうだろう。1990年代後半の金融危機や2002年の小泉構造改革という局地的な普通の津波で、日本の経済・金融システムはそれなりに大きな被害を受けた。そのような経験により、金融システムを守るための銀行破綻や資本注入、あるいは企業の破産や再編といった事後的な対応に関して法整備が進み、一定の経験を積んだと言える。
 しかし、所詮は局所災害における事後処理対策のレベルであり、構造的な災害に強いシステムへの転換が進んだとは言い難い状況である。
 そもそも高度経済成長を支えた、日本型経済・金融システムと呼ばれるものの原型は、日本が中国から更には米英との戦争に向かう中、国家生産効率最大化のために作り上げたいわゆる1940年体制と呼ばれる国家社会主義的な制度である。そのシステムのヘソにあたるのが、市場の役割を否定した以下の二つの仕組みである。
・旧大蔵省の影響下日銀による金融統制のもと、資金を銀行に集中しそこから特定の産業や業種に資金を供給する間接金融方式を定めた日銀法。
・資本の経営に対する影響力を抑えることで、株主資本主義を抑制し会社を「公」化した会社法。
 これらの法律は局所災害を経て改正されたが、未だに周辺の法制度、そして何より行政にあたる人間や国民に色濃く残っている。小泉改革は既成の制度を壊すだけで、何も築かなかったとの評が良く語られるが、私はそうは思わない。小泉改革は、1940年体制の残滓である既得権益を守る縦割り組織と事前裁量・ポジティブリスト規制による過度な保護行政に挑んだが、その改革が道半ばに終わってしまった。
 結果、中途半端なまま裁量的に運営される、いかにも大災害に弱い経済・金融システムが残されてしまったのである。
 現在の日本において、日銀や金融庁、財務省の幹部がマーケットへの肌感覚に基づいた理解を欠いていることは、最大のリスク要因である。金融・経済分野においてリボルビングドアによる官民交流が定着した欧米にとって、官民の壁が高く市場を肌感覚で知らない人間が統制する日本のシステムは、最も与しやすい相手だろう。

リーマンショックの結果、円は対ドル、ユーロ、人民元、アジア通貨の全てに対して大幅に上昇したままだ。これは円の価値が再認識されたわけでも、何でもない。市場を知らない当局がもたらした結果である。今回の地震で手傷を負った日本円が、何故高止まりしてしまうのだろう。市場と対話しながら、少しでも自国の経済にとって有利になるように金融・経済を運営していくのが、行政当局の役割である。
 しかるに日本の当局は、日本経済が上げ潮で強かった時代の感覚から未だ抜けきらず、相手国から要求されたことを受け止め対応するという、リアクティブなマインドセットから脱却出来ていないのではないか? 航空、FTA、農業、全ての交渉が、概してこのようなリアクティブな姿勢に基づいて行われている。未曾有の大津波が押し寄せて来た時、そのような当局者の姿勢が続くとすれば、金融・経済において災害が派生していく、つまりは陸に上がった津波が更にどんどん勢いを増して行くような状況となり、その被害は天文学的なものになるだろう。

プランBに向けて

 そのような現状であるから、当座の問題発生に予防的な対策を講じつつ(津波の発生を阻止)、少しでも大きな混乱を避けるための構造改革を行うことが、現在の政治に求められる役割であり、それを我々?は「プランA」と呼んでいる。

<プランAの内容>
・若干デフレからややインフレの状況で、日銀による国債の引き受けを実施
・経常収支の黒字を維持するためのあらゆる施策を打つ
・抜本的な社会保障改革により歳出を抑えつつ増税を実施
・経済成長率を上昇させる成長戦略とオーバーカンパニーを構造改革
 これらはいずれもハードルが極めて高い政策であり、すべて導入される可能性は決して高くない。
 また、仮に導入されたとしても当面の期間は危機の先送りであり、突発的事象のリスクは拭えない。したがって次回は、不幸にして大津波が発生した時に行う政策「プランB」を披露したい。

2011年4月9日土曜日

「政府が方針を全部作らないと、自分たちは動けないんです」という日本でいいんでしょうか? たくさんの読者コメントをもって内閣府に行ってきました(その2)

否定派の意見には3つのポイントがある

大上:日本の成長戦略の枠組みですが、日経ビジネスオンライン読者のコメント、屋上会議室での意見を読んでいると否定派の意見には大きく3つのポイントがあるようです。
 1つは「ビジョンはあっても、そこに至る道筋がないのではないか」あるいは「戦略的と言えるものが25%削減以外に何があるのか」というもの。それから「各員配置で頑張れといっても、それぞれの役割は何なんだ」とか、「それなりに責任を与えるとか命令を下すのは、政治の役割なんじゃないのか」というのが2点目。
 そして3つ目はちょっと切り口が違いますけれども、「成長のことはしょせん民間のことなんだから、政治はむしろそういう民間の邪魔をしないことを考えてくれ」と。こういう3つの声がありました。
 それぞれに「そうかな」と思う部分がある反面、その指摘が的を射ているならば、今まででもうまくやれていたんじゃないかと思うわけです。

NBO:大塚さんはこれらの3つのポイントについては、どのようにお考えになりますか。


ロードマップを示すだけでは物事は進まない

大塚:まず1つ目についてです。もちろん一定のロードマップをお示しする意味はあると思います。けれども、本当にロードマップ通りに粛々と物事が進むかといえば、そうではない蓋然性の方がきっと高いでしょう。
 ですから、そのときにどう対処していくか。やはり、それを成し遂げたいという熱い思い、アニマルスピリッツが大事だと思います。ただ、ロードマップを期待するご意見も理解できますので、これからさらに議論を深めていきたいと思っています。

意見を言い合える関係性を作る

大塚:2つ目のポイントには、それぞれのポジションで、どうアクションすべきかということについて、指示なり、何かミッションがあった方がいいのではないかということですね。それもよく分かります。
 これからどういうことを行っていくのが良いのかについては、政府として方向性を示していきたいと思います。しかし、先ほどのロードマップの話と同様に、示唆をさせていただいた内容通りにやっていったら、必ず物事がうまくいくわけでもないと思いますよ。

NBO:むしろロードマップ通りに運ぶ方が稀なのかもしれませんね。

大塚:そうです。問題や改善すべき点は必ず出てきます。そうした時、別の解決策や実行案があることを政府に気付かせてくれるぐらいの付加価値の高い意見を、どんどんこちらに提供していただくような関係の方がクリエイティブではないかと思います。

ロードマップを示すことと自由な成長を期待することはバランスが難しい

大塚:民間の発想や主張、力強さやアニマルスピリッツは、日本を良い方向に導いていくので、政府がとにかく邪魔をするなという3番目の意見に、私は完全に賛成です。
 今回、批判的、否定的にいろいろなコメントをいただいた方々は、いくつかのカテゴリーに分かれると思います。コメント間の整合性には合意が必要ですね。
大上二三雄氏
大上:そうですね。

大塚:例えば、自由なダイナミズムを望む意見の人たちが、同時に政府に対して「ロードマップを示せ」と要求することは論理矛盾になってしまいます。
 「自分たちはもっと指示に従いたい」あるいは「政府の方針に従ってバリバリやっていきたいので、政府は明確な方針を示してくれ」というカテゴリーの方ならば、「ロードマップを示せ」「それぞれの分野ごとのミッションを示せ」ということと連動します。
 一方、「邪魔をするな」というカテゴリーで「ロードマップを示せ」という方がいれば、それはやはり矛盾になってしまう。そうした点の整理が必要だろうなと思います。

大上:中途半端に自己矛盾するような要求を投げ掛けてしまっている方もいると。

大塚:そうだと思います。

大上:自らの手による変革を望みながら方針を待つというのは、たしかに自己矛盾ですね。先日ある業界組合で成長戦略についての議論に参加したんですが、似たような思いを抱くことがありました。
 議論では全員が、結局、選択と集中をやらなきゃいけない、我々は業界の再編をしなきゃいけないと主張するんです。ところが「では皆さん、その方向で話し合って選択と集中の案を作ってください。そうしたら私は、その案を持って当局に掛け合います」と申し上げたのですが、「それは我々ではできない」と言うんですね。「政府でそういう方針を示してくれないと、自分たちは動けない」と。
 政府の方針を待つような姿勢についてはこれからどうしていきますか。

政府の役目は触媒としての誠実な牽引力

大塚:世代の話を持ち込むのもどうかと思いますけれども、傾向的にある世代まではそういう思考パターンに慣れてしまっているということも考えられます。

大上:そうですね。価値観や思考パターンは、これまでの環境によって違いが出てきますから、世代によって見方も変わってくるのかもしれませんね。

大塚:高度成長期の世代には、そうした思考パターンがフィットしていたかもしれません。何しろ、トレンドが高度成長ですから、あえて変わったことをやる必要はありません。一方、日本のビジネスモデルが壁に直面している現在の若い世代の方が、自分たちでロードマップや戦術も考えるんだという思考になっているのではないでしょうか。

大上:一方で政府からの助言や介入があった方が良いのではないかと思うこともあります。政府の役割としては、民間に自由にやらせるところも必要ですが、経済が活性化するような外交活動には、これをスムーズに進めるためにもっと介入すべき部分もあるんじゃないかなと思いますが、いかがですか。

大塚:政府がそこにポジティブな役割を見出して、いわば触媒として経済活性化につながるような外交活動を促す余地は十分にあると思います。
 ただその時、かつてのように、既得権益とかステークホルダー優遇という思いが政府側にあってはなりません。オールジャパンとして、これから国際経済社会の中でどういうポジションを占めて、どういうパフォーマンスを実現していくんだという純粋な思い、国家戦略がなければ、触媒としての役割は果たせません。

大上:不純な動機はだめですね。以前はこういうものには必ず利権が関係している部分があったのですが、そういうのは本当にやめにしてほしいというのが国民の声です。
 今回、民主党のやる気には幕末の志士の心意気を感じるというコメントもたくさんありました。ただし、志士も後半になるとみんな、かなり権力にまみれた部分が出てきてしまう。でも前半はすごくフレッシュな意気でやっていたので、民主党もその心意気でやってもらいたいと。

大塚:大上さんがおっしゃるように、利権や私利私欲、あるいは特定の考えに拘泥することがあってはならないわけです。
 もっとも、国際経済社会の中で日本がどう立ち振る舞っていくのがベターかということについては、意見は分かれると思います。
 そこで、分かれる意見をある程度引っ張って行ったり、集約をすることが政治に求められる役割です。しかし、初期段階から方向性を政治に示して欲しい、いろいろな選択肢を示して欲しいというのは、ちょっとどうかなと思いますね。

大上:それは情けないですよね。


政治に求められるリーダーシップは取捨選択

大塚:政治ももちろん1つの考え方を示しますけれども、それに対していろいろな選択肢が、国民の皆さんや経済界から、あるいはアカデミズムの世界からどんどん出てきて、1つの意見にまとめることができれば言うことないわけです。
 ただ、そんなにシンプルに物事は進まないので、収斂できないときに取捨選択をするのが政治のリーダーシップだと思います。

NBO:おそらく、そういう考え方のフレームというか議論の進め方みたいなものが見える、政府と民間の新しい関係、コミュニケーションの形を見せてくれと言っているんじゃないのかなと、読者の意見を読んでいると思いました。

大塚:同感です。政官財、あるいは政官学財と言ってもいいかもしれませんが、公共政策の形成プロセスにおける各界のスパークが必要です。そして、最終的に何か1つ戦略や戦術を選択しなければいけないときに、政治のリーダーシップが求められるわけです。今はまさに、そういうプロセスをオールジャパンで行っていく局面だと思います。

民間からのアイデアに地方が手を挙げ国が支援する

大上:皆様からのコメントには、「環境政策」や「環境のプロモーション」にお金を使ってほしいというコメントや、無利子国債や環境対策国債などのアイデアがたくさん出ていました。
 こうした民間からのアイデアは、地方の関係者の目に留まると地方から「それをやりたい」と言ってくることがあります。そうすると実施を考えている地方を国が支援する。と、いうような流れが理想の形に思われます。
 お金は民間が負担し、やりたい気持ちは地方から高まってくる。先程、大塚さんがおっしゃったこともそうですよね。

大塚:そうですね。そうした環境技術を中心とした科学技術立国というのが国を変えていくためのひとつの道だと思います。テクノロジーとかインテリジェンスの部分で付加価値を生んでいかなければなりません。
 資源がなく、労働コストも低くならない日本にとっては、これがとても重要なことなので、今こそ本当に研究者の活躍、ビジネス界でもそういう専門性を持った方々の活躍が期待されます。

大上:行動していくことが大事だということですね。

大塚:そうだと思います。だからこそ今の政権では人材育成が日本の命運を握るととらえているわけです。今年度の予算でも人的投資の項目が8%ぐらい増えていると思います。
 もちろん人的投資にも中身がいろいろあるので、一概に科学技術ばかりに予算が配分されているわけではないのですが、これだけ大きく主要経費別の予算配分の変更が行われたことは過去に例がありません。着実にそういう方向に向けてスタートを切っているということです。

大上:戦略の最大の要素は、やっぱりお金、投資でしょう。そういう意味で投資たる予算がそこまで大きく変わっているということは、大きな戦略的な転換が実際は行われているということだと見てもいいんだと思います。
 あと投稿の中で具体的な項目に対して、これは当事者かなと思えるような人や、あるいは地方のテーマでは、自らが行動しなければいけないとあらためて自分にハッパを掛けているような地方の公務員の方など、当事者からの声が結構たくさん上がっていました。このことを私は大変うれしく思いました。
 大塚さんはどのようにご覧になりましたか。

意識が変わるだけで、雰囲気も変わる

大塚:まったく同感です。例えば、先ほどお話しした地域活性化統合事務局には、50人ぐらいの地方からの出向者がいますが、これまで地方からの出向者は単なるマンパワーになっていて、内実は組織全体として各役所の出先機関に成り下がっていました。
 そこで私が彼らに意識改革を促したのは、「本当に地域を活性化したいのならば、霞ヶ関の政策的ツールをしっかり観察し、それをどうやって地方で有効活用できるのか。そういう問題意識と熱意をもって働いて欲しい」ということでした。
 彼らの意識が変わるだけで、政策ツールは変わらなくても、パフォーマンスは変わってきます。最近、本当に雰囲気が変わってきたんですよ。人は問題意識を持ち、当事者意識をもって参加するだけでポジティブな展開や変化を生み出すことができるんです。
 ですから、皆さんが積極的に参加してくれているのは、本当にうれしいです。

大上:これまでのお話を聞いていて、「どうやったらできるか」という知恵を集め、行動していけば、物事はブレークスルーするのだとよく分かりました。「積極的に働き掛けて行こう」ということが「できない理由は聞きたくない」につながるのですね。
 また、それは副大臣が一生懸命、働いているから伝わる言葉なのでしょう。金融庁高官も、副大臣室はいつも明かりが付いていると言っていました。G7に行った翌日でさえ朝から付いていたので、自分たちもやる気になったそうです。

大塚:日本全体が頑張らなくちゃいけない時期に入っていると言えるでしょうね。無計画に働き過ぎるのはよくありませんが、やるときはやらなくてはいけません。僕自身も朝早くから夜遅くまで働いていますが、最近エレベーターで一緒になった若い職員が「副大臣の在席ランプがいつも一番最後まで付いているので、自分たちも残業していてもやる気になります」と言う言葉を掛けてくれました。
 前向きに動き続けていくことで日本は元気になるんだと思っています。

(次回は「4つの基本戦略が日本を変える」です。)


2011年3月17日木曜日

日本は再び、「新商品」を産み出せるようになるか(後編) 古河鉱業からファナックまで~確率や期待値を超えた夢を持つ人たちとは

前編から)
 いま日本が明治維新以降140年以上かけて進めてきた軽工業から重工業に到る近代工業化を、中国は僅かこの20年の間に日本の技術や資本を活用しつつ、華僑ネットワークを使い溢れる世界の資本を上手に引き寄せ活用しながら、各分野同時並行的に猛烈なスピードで進めて来たといえます。かつて1800年代から1900年代にかけて、押し寄せる帝国主義諸国に良いように食い物にされた経験を、反面教師として充分に活用したのでしょう。
 明治維新からの日本近代産業史を手繰ると、それまでの伝統的技術の上に西欧から導入された技術が上乗せされた流れがあります。
 最も初期から発展して行ったのは、鉱業からの流れです。換金性が高い優良な鉱山を所有していれば、稼いだ外貨で海外から開発法を始めポンプ、掘削、製錬、発送電、機械加工などおよそ考えられるありとあらゆる技術を購い、次にその技術を国産化して行くことで新しい事業を産み出すことが出来たのです。石炭と銅は、コンスタントに輸出の10%近くを占める外貨獲得の優等生でした。
 明治時代、日本は諸外国に土地の租借は認めず、鉱業権その他由来の権利を海外からの借金に対して抵当に出すことはしませんでした。また、鉱山で稼いだ資本家たちは、その富に安住するのではなく、次の産業を開発するための投資を行いました。近親主義や自己利益に走り「国を売る」指導層を持った結果、半ば植民地のようになってしまった国も多かった中、我々の先祖は富国強兵のスローガンを国として掲げ、決して安易な途に陥りませんでした。
 結果、鉱物資源という地球から人類への贈り物を土中より掘り出し続けることで、産業化の初期段階に於いて多様な技術を扱い価値の拡大再生産を行う鉱業は、我が国の中に幾つもの財閥、コングロマリットを産み出して行きました。資源に恵まれた多くの国々で出来なかったことを、我々の先祖は成し遂げたのです。ここでは、そのようなコングロマリットの1つである古河グループに関して、その源流である古河鉱業からFANUCに至る流れを見ながら、
 そこに至る迄の成功要因、そして今日における課題を、歴史、産業、そして企業組織の観点から俯瞰しつつ、議論して行きたいと思います。
 

古河鉱業の祖は古河市兵衛、出は京都の商家であった者が高利貸の手先や勤務先の倒産など苦労しながら、才能もあったのでしょう、良い養子の口に恵まれました。ちなみに、江戸時代までの封建制度の社会に於いて、基本的に職業は世襲でしたが、実子が居ない場合は当然のこと、実子が居ても才能に欠ける場合にはその実子を他家に養子で出した上で、能力がある養子を娶ることは良く行われたようです。封建制度における知恵は、中々したたかです。
 市兵衛は、勤務先であった小野組が倒産した際、潔く会社の整理を行い自らの私財をすべて提供し無一文になりました。その後市兵衛は、それを見込んだ渋沢栄一の資金援助を得て、足尾銅山を始めとする幾つかの鉱山経営に乗り出し近代化に成功したことで古河財閥を誕生させました。
 市兵衛は陸奥宗光にも大いに気に入られ、その二男を養嗣子として娶りました。そして、政党政治家として初の首相になった原敬は、抜群の政治的センスを活かし外務官僚に採用された後、古河の二代目社長に就任したその養嗣子古河潤吉に、同じく彼を引き立てた陸奥宗光の縁で請われ、その時期古河鉱業会社の副社長を務めていました。
 同時に伊藤博文が設立した立憲政友会の初代幹事長にも就任していた彼は、その後西園寺内閣の内務大臣に就任したことで古河鉱業を離れます。
 当時、有為の人材は政産官の各領域でリボルビングドアを通して行き帰しつつ育っていたことが、このような例で良く判ります。
 今の日本ではこの政産官の壁が高く、最近は交流まで厳しく制限されるようになって来ています。この壁の弊害が、現代日本のリーダーシップにおける問題の主たる原因の1つであることを考えると、このような産官政の人材交流を積極的に進めて行くこと、一考の余地があると思われますが如何でしょう?

合併で生まれた古河電気工業

 1920年、古河鉱業が創業した幾つかの電線会社が合併し、古河電気工業が設立されました。新たな事業を自ら作るために分社する力が多くの子会社を生み、それが集約された結果です。現在、多くみられるような、徒に社長ポストや天下り先を作るだけの大企業の子会社とはダイナミズムが違います。
 そして、創業時からシーメンスとの取引関係の深かった古河鉱業とシーメンスの交渉を古河電気工業が引き継ぎ、1921年に古河の「ふ」とジーメンス(ドイツ語読み)の「じ」と両者の頭文字を取る形で、富士電機製造が東芝、日立、三菱電機に次ぐ重電機メーカーとして設立されました。
 さて当時、シーメンスは日本に深く事業基盤を築いていましたが、シーメンス事件でその基盤は大きく揺らいでいました。更には、第一次世界大戦で敗戦国であったこともあり、日本における立場が苦しかったのでしょうか、シーメンスは1923年に10:3での合弁会社として富士電機を設立する時点で多くの事業を譲渡したのに次ぎ、1925年にはその日本における電話事業を富士電器に譲渡しました。
 そして、1935年には、富士電器の通信機部門が独立し、富士通信機製造(現在の富士通)が設立されました。新たな事業を産み出す力が、内部から強く働いた結果です。また、戦争に向かう日本に於いて、通信機やレーダー、計算機といった軍事戦略的な電子技術は極めて重要であり、富士通はそれを担う重要な軍需企業でもありました。
 戦後の富士通では、多くの軍事関係のビジネスと技術や設備を失いました。
 しかし、若くて優秀な日本復興の希望を抱く技術者を中心にした社員が残りました。
 そして彼らは、その再建の中で幾つかの極めて戦略的な決断を行います。
・富士通の事業をCommunication、Computing、Controlの3Cと定める。
・その時点で利益を上げている通信(Communication:交換機や電話機)から、赤字の計算機(Computer)、制御装置(Control)の両方に対し、大胆に投資をする。
・併せて、有能な人材を計算機事業に傾ける。
・古河本家、宇部興産の有能な経営者であったが通信や計算機ビジネスに縁の無かった68歳の岡田完二郎を社長に招く。
 戦後の日本における通信機製造会社にとって、これがどれだけ野心的で、実行の難しい戦略であったかは想像に難くありません。


もし、あなたが事業責任者の立場であったならばどうする?

 もし、あなたが、利益をコンスタントに稼ぎだす事業部門の一員であれば、如何に将来の可能性有る新規事業でも、海外に遥かに先を行く競合企業がいくつも存在し、足元には事業基盤となる市場や技術など殆んど何もない状態で、果たして自分たちの給与まで犠牲にしてそれに湯水のように人材も含め投資することを、許容できるでしょうか? ましてやそれが、それまで業界に居なかった高齢の新任社長の指示であったとなら?
 彼らは、会社として個人として、それをやったのです。そこには集団の意志と優れたリーダーの存在が見てとれます。以下、何人かの代表的な登場人物を見てみましょう。


尾見半左右
3Cを提唱したビジョナリーな技術者。小林、池田、稲葉等の気鋭のリーダー候補を、厳しくそして温かく育てる。専務で退職した後、情報産業の人材育成に強い情熱を傾ける。


小林大祐
戦時中は帝都防衛システムを研究した、マネジメント能力の高い技術者。池田、稲葉という優れた個性の強い技術者を使いこなしながら育て、のち社長に就任。出社せずとんかつ屋で狂ったように仕事をする部下の池田に給与を払うため、人事部に掛け合い特例人事制度を用意したエピソードは有名。


池田敏雄
富士通の2つ目のCである、コンピュータ開発を率いた天才技術者。数多くの天才らしいエピソードで知られるが、優秀なセールスマンでありマネジメントでもあった。猛烈に働きながら、海外からのバイヤーを迎える羽田で倒れ死亡したこと、戦死と称えられる。プロ級の囲碁打ちでもあり、日本棋院に囲碁ルールの論理矛盾を指摘、その改善策を提示した功績で6段を贈られている。


稲葉清右衛門
富士通の3つ目のC、コントロール(制御装置)ビジネスを率いた天才技術者にして起業家。社内ベンチャーとしてFANUCを創業した際、朝7時に大手町の本社に出社し、一人ひとりの営業に指示を与え送りだした後、川崎の工場に向かい開発、製造を統括、夕方には再び本社に戻り客先より戻って来る営業からの報告を全て受け翌日までの仕事を指示、夜は得意先の接待から部下とノミュニケーションの後深夜帰宅、という猛烈な指揮官であったと伝えられる。


岡田完二郎
敗戦時古河財閥の社長であった。富士通に強力なリーダーが必要であった戦後の一時期、乞われて富士通社長に就任し、類稀なリーダーシップを発揮しつつ会社の基盤を作る。完全な文系人間であったが、最先端技術の理解に努めた。
 

会社の基盤を整えた富士通は、国産コンピュータメーカーの先頭を走り、巨人IBMを猛烈に追いかけます。戦後、軍需省から一夜にして看板を掛け替えた通産省(現在の経産省)は、輸入制限と補助金や行政指導で、国策としてそれを強力に支援します。電電公社(現在のNTT)は、国民から吸い上げた独占の利益を、電電ファミリーと呼ばれた富士通を始め数社に惜しみなくばら撒きます。
 IBMの戦略やプロダクトは、徹底的に分析され、リバースエンジニアリングによる創造的模倣が行われました。IBM互換機ビジネスを展開していたアムダール社に富士通は支援の手を差し伸べ、最終的には買収しました。元IBM技術者のアムダール博士は、池田敏雄の親友になり、彼の葬儀の際には池田の妻にアムダール社の株を贈りました。
 当時の富士通を良く知る人によれば、IBMが何か新しい発表をニューヨークで行うと、日本の深夜に行われたその内容を企画課長以下は徹夜で分析し、翌早朝に全ての経営会議メンバーでその対応策を議論する、といった経営サイクルで動いていたそうです。追いつくべき明確なライバルに対して、トップが率先して猛烈に働く文化が、そこにはありました。
 FANUCは稲葉の強烈なマネジメントで生まれ、そして育ちました。彼の経営は、富士通の社内ベンチャーとして立ち上げた事業部時代に、岡田完二郎と尾身半左右という二人の天才の薫陶を得て鍛えられ、上司の小林と同僚のライバル池田に磨かれて完成しました。FANUCは、今や売り上げ4000億円を超え経常利益率40%近い数字の、ロボット工作機械業界におけるインテルとマイクロソフトを一緒にしたような、時価総額3兆円の会社となりました。
 ここでは、FANUCの経営や事業内容を細かく説明することは、止めておきます。ただ、以下に幾つかの印象的な「稲葉語録」を上げておきます。興味ある方は日経ビジネスオンラインのアーカイブ記事などをぜひ読んでみて下さい。


 

FANUCは親孝行な息子です。富士通は21億円の投資でFANUCを産み出しましたが、その経営には一切口を出しませんでした。そして2000年代ITバブルが弾けて以降業界構造転換が進む中、社内官僚が内向きの勢力争いに明け暮れる富士通には、もはやかつての勢いは有りません。順次、創業当時から保有する全ての株式を売却し1兆円近くの売却益を得て、かろうじて生きながらえる事が出来ました。
 それはかつて祖父である富士電器が、あるいは更に曾祖父の古河電工がたどって来た道でもあります。そして多くの日本の伝統的な大企業も、程度の差はもちろんありますが、同様に過去の蓄えを守りながら生きながらえているように見受けられます。

企業の高齢化は避けられないのか?

 果たして企業の高齢化は、人間と同様に避け難いことなのでしょうか? 日本人が経営する日本企業は、フロントランナーたり得ない、キャッチアップする目標を失うと活力を失ってしまうのでしょうか?
 筆者はそうではない、日本企業の強みである高質かつチームワークの得意な人材の厚みは、今も健在であると思います。事実、FANUCを始め沢山のフロントランナーとしてイノベーティブな成功企業も存在していますし、レクサスや高級カメラ等に代表される日本の擦り合わせ型ものつくりの強みは、今も揺らいでいないように思えます。
 それでは、池田敏雄がいないのでしょうか?
 決して、そのようなことは無いと思います。欧米を除き、これだけ多くのノーベル賞科学者を輩出している国は、日本だけです。もし日本が欧米国であったなら、日本人科学者の存在は遥かに認知されるようになり、ノーベル賞受賞者の数は10倍に上るはずであるというということを多くの指導的な科学者が言っています。ソニーやホンダを始めとして、多くの日本企業はオリジナリティのある商品を多く輩出して成長してのは、歴史が証明する通りです。

「戦前の高等教育を受けた世代」がすでに90歳

 課題はマネジメントの資質に尽きるのではないか、との思いを強くしています。天下泰平のユデカエル状況で、本来リーダーになるべきではない人間が間違ってリーダーになってしまう、そうなると、かつてのメインバンクのガバナンスも資金余剰で相対的に弱まり、株主やメディアのガバナンスが充分でない日本企業は、間違ったマネジメントの連鎖で長期低迷傾向に陥ってしまった、というのが筆者の見立てです。
 あるいは、間違ったとまでは言えなくても、環境の変化に追随できない前時代的なマネジメントを選択し、その結果、会社を環境変化に合わせて変えることが出来ずに長期低迷に陥る企業も、多く存在しています。
 この傾向は、戦前に高等教育を受け戦後の苦難の時代を乗り切った人材が第一線から退くに従い、顕著になって来たように思えます。1945年に25歳であった人間は、1990年には70歳になり、既に一線は退き影響力も徐々に減少して行きました。そして彼らが選んだ後継者も、2000年には引退を迎えます。
 戦後の高等教育を受けた人間が後継者を選ぶようになってから、日本企業全体の傾向として、早い時期から頭角を現し選抜されたリーダーが後継者として組織をマネジメントする傾向が徐々に減り、むしろ、運良く好業績を上げた後はひたすら守りに徹する様な「昇進することが自己目的化した企業人」達により、社長の座が争われるようになって来たように思えます。
 もちろん、私が話しているのは確率論です。繰り返しになりますが、現代でも岡田完二郎のような名経営者は沢山居るでしょう。ただ、多くのかつて優れていたが今は停滞する日本企業を個別に凝視してみると、後継者の選定を誤り、現代の池田敏雄のような人物を活かすことが出来ない後継者を選んでしまっている例は、多く存在するように思えます。


仕事をしている振りが上手な人ほど出世する文化に疲労困憊

 私の知人はIT関係のベンチャーを創業し、それなりの規模まで成長させましたが、縁あって超大手通信会社の買収を友好的に受け入れ、100%子会社となりました。そして1年、本来なら親会社の支援の元、野心的に事業を拡大するはずであった経営陣は、全て辞めてしまいました。彼らは、次のようなコメントを述べています。
 「やる気があり、仕事が出来る人が必ず辞めて、文書や管理表作りで仕事をしている振りが上手な人ほど出世する文化に疲労困憊した」
 良く知る有為な人物たちの言葉であり親会社も良く知っているので、私には大変に説得力があるコメントです。
 危機が会社を変える例は多くあります。最近良く知られているのは、やはり日産でしょうか。あるいは、日本電産に買収された会社が、軒並み高収益に転換しているのも、良く知られているところです。
 昭栄という、かつて村上ファンドが最初の標的にした会社が有りました。芙蓉グループに属する、かつての生糸製造者で駅前土地のオーナーとして殆んど眠っていたような会社は、村上ファンドの攻撃は退けた後アクティブな不動産事業者として目覚め、一時企業価値は6倍を超えるまでになりました(もっともその後、積極的な経営姿勢が2008年のミニバブル崩壊で痛手を負いましたが、それでも1.5倍程度の現状です)。


鉱山事業から大きなコングロマリットを産み出した力がある

 危機が来るまでは何もしないのが上策、という考え方も全く無い訳ではないでしょう。が、やはりそれではあまりに受け身で寂しいと思います。かつて鉱山事業から大きなコングロマリットを産み出した力を、改めて、地理的や分野的に未知の領域に活用する、ベンチャースピリットこそが求められているのではないでしょうか?
 多くの職業選択に臨む若者にとって、日本の大企業や官公庁は理論的に最も有利な選択です。なぜなら、ダウンサイドリスクは小さく、役員や、ひょっとして社長というアプサイドオポチュニティがある。1万円の宝くじで、賞金が最低1000万円から可能性として最高100億円まで有るものと、最低1000円で最高1000億円のものと、果たしてどちらを買うでしょう?
 そのような、期待値を計算して賢い選択が出来る若者を集める日本企業にとって、変革の時代をリードする正しいマネジメントを選ぶことが重要です。そして投資家や金融機関は、確率や期待値を超えた夢を描くベンチャースピリットを持つ起業家を支援することが、必要であると思います。
 言うや易く、行いは極めて難しいこの課題に、たとえその組織における一介の構成員であれ、エジプトの市民のように声を上げて行動することが必要な時代であると、筆者は考えます。
 「具体的には」、「例えば」、「現実は」、全て自分のフィールドにおける固定観念に基づいた議論へと引き込む思考停止の言葉です。日頃の固まった部分最適の世界で多用しているかもしれないこのような言葉の使用をたまには控え、部分最適で思考停止に安住することなく、各人持ち場で全力を尽くして行きましょう。

2011年3月16日水曜日

明治維新から140年超~日本は、再び新商品を産み出せるようになるか(上)

大手精密機械メーカーで事業部長に就任して初めての中期経営計画の立案に臨んでいる私の友人は、新たな成長事業の発掘という使命を与えられ苦悶しています。
 色々な議論に疲れているのでしょうか、週末のゴルフの帰り道、彼は少しアルコールの入った状態で語ります。  「当社の長い歴史の中、戦前の新規事業は“国産化”だった。軍が国策として国防の為の国産化を掲げ、ふんだんに開発費を投じてくれる。そして、当社の真面目な技術者たちは寝食を忘れ働き、当時の世界最先端レベルの製品を開発して軍に提供すると共に、その技術を応用した製品を一般市場に投入していった。戦後、軍事開発は無くなったが、先を行く欧米企業に製品の品質で追いつくという目標は明確であり、とにかく皆で真面目に寝食を忘れて働いていると何とかなった。
 そのうち、当社の特定部品が急に売れはじめたので、その用途を手繰ってみると、欧米で全く新しい技術革新に伴った製造機械の需要が発生していることが判った。当社の部品は、その製品にとって最も重要な構成要素であったわけだ。
 綿密な分析を行った上で当社はその製造機械マーケットに参入し、結果として大きなシェアを獲得した。そして今、我々は先輩たちの栄光の歴史を受け継ぎ新規事業を探しているが、なかなか見つからない。当社は今や世界でも有数の企業となったけど、改めて考えてみると、純粋に自分たちで新しい事業や製品を作ったことが無い。
 だから今は、どうやってそれを作ったらいいか、試行錯誤の毎日だ。過去の成功のパターンも探ってみたが、芽の出そうなネタは見つからない。たまたま私の前任者がM&Aをした新しい技術を持った海外のベンチャーがあるので、当面はこれに力を注いでいるところではあるが・・・」
 今や多くの日本企業は、それぞれの分野で先頭に立ち世界のマーケットで戦っています。コストでは中国企業に敵わず、デザインや品質でも韓国企業から急激に追い上げられている・・・私の友人の悩みは多くの日本企業における悩みではないでしょうか?

「私たちは再び、イノベーティブな新商品を産み出せるのか」

 今回は、前回までの日本というマクロな視点から、企業の歴史を取り上げ、よりミクロな視点から「私たちはいつから、イノベーティブな新商品を産み出せなくなったのか」ということを考えてみたいと思います。


日本の近代産業史


明治初期の日本

 明治初期、日本の輸出を支えたのは農林水産物です。中でも生糸、そして茶と米が大きな部分を占めていました。農林水産物の次に大きな割合を占めていたのは石炭と銅です。西欧の技術が取り入れられ生産性が向上した結果、明治中期以降はコンスタントに10%程度を稼いでいました。
 明治後期からは軽工業である繊維産業の発達に伴い、絹織物、綿糸、綿織物の輸出が増えて来ます。絹糸や絹織物の輸出先は米国を始め西欧諸国ですが、綿糸、綿織物の主たる輸出先は中国やインドなど産業革命に乗り遅れた国々です。そして工業製品が輸出されるようになると、国内経済の発展や人口増に伴う国内消費の拡大や輸出総額の増加に伴い、農林水産物の輸出割合は減少して行きました。
 明治初期、綿糸や綿織物から武器や船舶、機械製品まで、日本は多くの工業製品を輸入していました。そして日本の国内産業が成長して行くに従い、輸入は綿糸や綿織物から実綿、機械製品から鉄鉱石などの原材料に、徐々にシフトして行きました。
 極めて大雑把にいえば、明治初期の日本は現代の途上国のように1次産品である農林水産品や鉱物の輸出で外貨を稼ぎ、加工製品である綿織物や武器、機械を輸入していました。

明治中期から昭和へ

 中期以降は軽工業の発展に伴い、繊維原材料を輸入し繊維加工製品を輸出する国になりました。そして後期には、官営八幡製鉄所で鉄を作りその鉄で船や建築物、そして武器を製造するようになり、結果、鉄関連の製品輸入は減り原材料の輸入が増えたのです。
 昭和に入っても、日本の外貨を稼ぐ主力は繊維でした。国防と経済発展両立の国策として重工業化と国産化を急ぐ中、その資源と拠点を満州と南方に、そしてその市場を中国に求めました。結果、その途上で対抗するだけの充分な生産力と技術力を持たないまま、米国と利害が衝突した日本は無謀な太平洋戦争に突入したのです。
 そして戦後、それまでの蓄積や整備された1940年体制という社会システムを活かし、東西冷戦における地政学的位置にも恵まれた日本が、結果として重工業化を成し遂げ高度経済成長により欧米先進国と並ぶ豊かな国になった経緯は、前回までに述べてきた通りです。

日本140年の歴史と中国20年の歴史

 時代の環境は大きく異なっていますが、日本が明治維新以降140年以上かけて進めてきた軽工業から重工業に到る近代工業化を、中国は僅かこの20年の間に日本の技術や資本を活用しつつ、華僑ネットワークを使い溢れる世界の資本を上手に引き寄せ活用しながら、各分野同時並行的に猛烈なスピードで進めて来たといえます。
 かつて1800年代から1900年代にかけて、押し寄せる帝国主義諸国に良いように食い物にされた経験を、反面教師として充分に活用したのでしょう。
 明治維新からの日本近代産業史を手繰ると、それまでの伝統的技術の上に西欧から導入された技術が上乗せされた、幾つかの流れを定義することが出来ます。
(1)たたら製鉄や鍛冶、からくりなどの技術から官営八幡製鉄所、造兵廠、造船所から重工業に至る流れ。
(2)綿や絹織物、製糸等の技術から、繊維産業、織機の国産化、そして精密機械工業や自動車工業に至る流れ。
(3)鉱山や精錬等の技術から、鉱業、機械、土木、化学、電機、電線その他、数えきれないくらい多くの産業に至る流れ。
 これらの流れは、相互に重なりもつれ合いながら大きく発展して行きました。また、この3つの流れ以外にも、大きな金融の流れが有ります。また、小さな流れは無数に存在しています。

この中で、最も初期から発展して行ったのは鉱業からの流れです。換金性が高い優良な鉱山を所有していれば、稼いだ外貨で海外から開発法を始めポンプ、掘削、製錬、発送電、機械加工などおよそ考えられるありとあらゆる技術を購い、次にその技術を国産化して行くことで新しい事業を産み出すことが出来たのです。石炭と銅は、コンスタントに輸出の10%近くを占める外貨獲得の優等生でした。
 明治時代、日本は諸外国に土地の租借は認めず、鉱業権その他由来の権利を海外からの借金に対して抵当に出すことはしませんでした。また、鉱山で稼いだ資本家たちは、その富に安住するのではなく、次の産業を開発するための投資を行いました。近親主義や自己利益に走り「国を売る」指導層を持った結果、半ば植民地のようになってしまった国も多かった中、我々の先祖は富国強兵のスローガンを国として掲げ、決して安易な途に陥りませんでした。
 結果、鉱物資源という地球から人類への贈り物を土中より掘り出し続けることで、産業化の初期段階に於いて多様な技術を扱い価値の拡大再生産を行う鉱業は、我が国の中に幾つもの財閥、コングロマリットを産み出して行きました。資源に恵まれた多くの国々で出来なかったことを、我々の先祖は成し遂げたのです。

 

古河グループの歩みをケースに考えてみよう

 ここでは、そのようなコングロマリットの1つである古河グループに関して、その源流である古河鉱業からFANUCに至る流れを見ながら、そこに至る迄の成功要因、そして今日における課題を、歴史、産業、そして企業組織の観点から俯瞰しつつ、議論して行きたいと思います。


 

古河鉱業の祖は古河市兵衛、出は京都の商家であった者が高利貸の手先や勤務先の倒産など苦労しながら、才能もあったのでしょう、良い養子の口に恵まれました。ちなみに、江戸時代までの封建制度の社会に於いて、基本的に職業は世襲でしたが、実子が居ない場合は当然のこと、実子が居ても才能に欠ける場合にはその実子を他家に養子で出した上で、能力がある養子を娶ることは良く行われたようです。封建制度における知恵は、中々したたかです。
 市兵衛は、勤務先であった小野組が倒産した際、潔く会社の整理を行い自らの私財をすべて提供し無一文になりました。その後市兵衛は、それを見込んだ渋沢栄一の資金援助を得て、足尾銅山を始めとする幾つかの鉱山経営に乗り出し近代化に成功したことで古河財閥を誕生させました。
 市兵衛は陸奥宗光にも大いに気に入られ、その二男を養嗣子として娶りました。そして、政党政治家として初の首相になった原敬は、抜群の政治的センスを活かし外務官僚に採用された後、古河の二代目社長に就任したその養嗣子古河潤吉に、同じく彼を引き立てた陸奥宗光の縁で請われ、その時期古河鉱業会社の副社長を務めていました。

同時に伊藤博文が設立した立憲政友会の初代幹事長にも就任していた彼は、その後西園寺内閣の内務大臣に就任したことで古河鉱業を離れます。
 当時、有為の人材は政産官の各領域でリボルビングドアを通して行き帰しつつ育っていたことが、このような例で良く判ります。
 今の日本ではこの政産官の壁が高く、最近は交流まで厳しく制限されるようになって来ています。この壁の弊害が、現代日本のリーダーシップにおける問題の主たる原因の1つであることを考えると、このような産官政の人材交流を積極的に進めて行くこと、一考の余地があると思われますが如何でしょう?


合併で生まれた古河電気工業

 1920年、古河鉱業が創業した幾つかの電線会社が合併し、古河電気工業が設立されました。新たな事業を自ら作るために分社する力が多くの子会社を生み、それが集約された結果です。現在、多くみられるような、徒に社長ポストや天下り先を作るだけの大企業の子会社とはダイナミズムが違います。
 そして、創業時からシーメンスとの取引関係の深かった古河鉱業とシーメンスの交渉を古河電気工業が引き継ぎ、1921年に古河の「ふ」とジーメンス(ドイツ語読み)の「じ」と両者の頭文字を取る形で、富士電機製造が東芝、日立、三菱電機に次ぐ重電機メーカーとして設立されました。
 ちなみに東芝の前身である芝浦製作所はGE、そして三菱電機はウェスティングハウスと提携関係にありました。これらの提携関係の下で、日本企業は供与された見返りに多額のロイヤリティや配当を支払いながら、ひたすらキャッチアップに努め、それは第2次世界大戦後、一定の時期まで続きました。そして今、ウェスティングハウスは東芝の子会社でGEの主たる提携相手は日立です。
 さて当時、シーメンスは日本に深く事業基盤を築いていましたが、シーメンス事件でその基盤は大きく揺らいでいました。更には、第一次世界大戦で敗戦国であったこともあり、日本における立場が苦しかったのでしょうか、シーメンスは1923年に10:3での合弁会社として富士電機を設立する時点で多くの事業を譲渡したのに次ぎ、1925年にはその日本における電話事業を富士電器に譲渡しました。
 そして、1935年には、富士電器の通信機部門が独立し、富士通信機製造(現在の富士通)が設立されました。新たな事業を産み出す力が、内部から強く働いた結果です。また、戦争に向かう日本に於いて、通信機やレーダー、計算機といった軍事戦略的な電子技術は極めて重要であり、富士通はそれを担う重要な軍需企業でもありました。
 戦後の富士通では、多くの軍事関係のビジネスと技術や設備を失いました。しかし、若くて優秀な日本復興の希望を抱く技術者を中心にした社員が残りました。
 そして彼らは、その再建の中で、幾つかの極めて戦略的な決断を行ったのです。(後編に続く)