「業績が悪かったアメリカ法人は米国人経営者に食い物にされていた。でも、もともと米国人は単純明快なので、明快な目標のもと全社員を巻き込む活動で会社を変えることができたんだ。ヨーロッパの統括法人には沢山の国が参加しており、それぞれ風土も違ったんだけど、各国の代表ときちんと話せば、それなりに心が通じる。それでずいぶんスムーズに物事が進むようになった。
今取り組んでいる中国やアジアは国によってずいぶん違うし、民族によっても違う。同じ中国でも、北と南では大きく違う。多様なアジアでは日本の影響力も大きいし歴史問題などもある。そんな背景をもった人たちと一緒に働いていると、改めて自分が日本人で日本の会社を代表していることを意識する。
でもそのことを意識しながら会話する度に思うんだ。
「日本人である自分のアイデンティティは何か?」と。それが無いと相手からバカにされることは判っているので、一応、何かは言っているんだけど。とても同僚の日本人との議論には堪えない内容だよ」
高度経済成長の時代は、「エコノミック・アニマル」という言葉がありました。バブルの時期には、「ジャパン・アズ・NO.1」という言葉も。でも、これらの言葉は日本固有のものでしょうか?
今やアフリカを含め世界でビジネスに打ち込む中国を、「エコノミック・アニマル」と呼ぶことは可能でしょう。「チャイナ・アズ・NO.1」と言っても、全くおかしくありません。つまりこれらの言葉は、国家のある局面や状態を表していますが、共通のアイデンティティたり得る固有の独創性や特徴を表現したものではありません。
我々はどうも、アイデンティティ無きままに繁栄を貪り、そして今は緩やかな衰退を迎えているように思えます(この先は滝のようなフリーフォールかもしれません)。日本でも、沢山の思想家がこのテーマに挑戦して、様々な答えを出して来ましたが、筆者も折に触れ考えて、常に自分なりの答えはまだ浅いとは思いますが持っています。そこで、このコラム「ニッポンを議論する基軸」でも、主として明治以降の歴史を手繰りながら、皆さんが、日本と日本人のアイデンティティを考える材料を提供してみたいと思います。
碩学に学ぶ「そもそも日本とは?」
今回展開するのは明治以降の歴史を中心にした話ですが、それ以前の時代も含め、そもそも日本がなぜこのような歴史をたどり今のような社会・文化的特徴を有する国となったのでしょうか。まずはこの辺りから振り返ってみましょう。
筆者など遥か遠くに及ばない知識と思考能力を有すると思われる松岡正剛さんが事務局長を務める「日本と東アジアの未来を考える委員会」が、約2年の討議と調査を踏まえて作成した「平城京レポート」を、昨年12月奈良県が平城遷都1300年記念事業の総仕上げとして国に手交しました。
内容に関しては、2011年1月14日付日経新聞の経済教室をご覧いただくか、直接「平城京レポート」を見ていただきたいと思いますが、経済教室に掲載された松岡さんの簡潔かつ明瞭な要約をほぼ引用すると、以下の通りです。
・古来、シルクロードは日本とつながっており、様々なものが日本に渡来して来た。そして約1300年前の平城京に於いて、政治システムや言葉や宗教を始めあらゆる東アジアの特色を凝縮したような政治経済社会モデルが1つの完成をみた。
・平安時代からは、例えば漢字から仮名を作ったように、東アジア共通性からの離脱や自立が図られ、徳川の鎖国期に於いてはそのような日本化が完成の域に至った。
・幕末維新からは、西洋列強のシステムとテクノロジーの丸ごと導入に踏み切り、それが帝国主義から過剰なナショナリズムと大アジア主義を蔓延させ、結果的に太平洋戦争の敗戦に至った。
・現在の日本は各地に米軍基地を受け入れ、どちらかと言えば東アジアとの交流よりもグローバルスタンダードを全面的に受容する国となっている。シルクロードの東端に位置する島国であり、アメリカから来るとアジアの入口にある日本には常に様々なものが流れ込んでおり、あらゆるものが「ごった煮」の状況を呈しています。
日本語を始めとした日本文化の柔軟性に関してはよくいわれるところですが、このような地政学的な位置づけに負うところが大きいと筆者は考えます。
ところで、「侘び寂び」に代表されるような文化の日本化が大きく進んだのは、室町時代、ダメ政治家であった足利義政が居住した銀閣寺を中心に展開された東山文化です。彼の優柔不断な政治が引き起こした「応仁の乱」は、当時の人民たちにとっては災難でしたが、一方で、当時の文化人たちが乱戦の京都を逃れ、地方に降ったことで、我々日本人は共通の文化的基盤を有することができました。さて同様に、現在の民主党政治の帰結が後世に何をもたらすのか、興味深いところです。
黒船襲来、1853年の世界と日本
膨張する帝国主義はついに、東と西から日本に到達しました。その時、日本の国力は西欧の主要国と比較して劣り遅れていましたが、大国としてのポテンシャルは有していました。時間的なその差はどの程度のものであったのか、先ずは確認してみたいと思います。
日本がアジアの東北端に位置する島国であるということは、歴史を振り返った時、征服を受ける機会が極めて少なかったことや、多くの文化が交わりかつ末端であるがゆえ熟成が可能であることなど、色んな意味で日本に幸運を与え続けていると筆者は考えます。
黒船襲来を迎えた日本がその後、明治維新を迎えた経緯は、テレビドラマ「龍馬伝」などを見ても判ります。そこに描かれている日本は、西洋から遅れた“ちっぽけな島国”です。
ですが、実際のところ、1853年頃の日本は世界と比してどのような状況にあったのでしょうか?
国名 | 人口 (1000人) | 購買力平価GDP (1990百万国際ドル) | 一人当たりGDP (1990国際ドル) |
---|---|---|---|
中国 | 412,000 | 247,200 | 600 |
インド | 235,800 | 125,681 | 533 |
日本 | 32,000 | 21,728 | 679 |
ドイツ | 33,746 | 48,189 | 1,428 |
アメリカ合衆国 | 23,580 | 42,585 | 1,806 |
イギリス | 27,181 | 63,331 | 2,330 |
引用 Angus Maddison(故人)のホームページより
先ず人口でみれば、中国、インドは別格として、この時期の日本はアメリカ合衆国やイギリスより多く、ドイツやロシアに匹敵する人口を有し、充分に「大国の仲間」であるといえます。
経済規模でいえば、産業革命が進行し高度経済成長期を迎えている西欧の国家には敵いませんが、1人当たりでみると中国やインドよりは若干豊かです。ちなみにこの頃の西欧諸国は、植民地獲得の効果もあったのでしょうか、経済成長のスピードが非常に早くGDPが5年や10年で倍増するような時期でした。
軍事力は、黒船騒ぎに薩英戦争や4カ国艦隊との戦いの帰趨を見ても明らかなように、相対的な比較ではとても弱かったと思います。
1871年に再統一を成し遂げたドイツとの比較でいえば、その中核となったプロシアに於いて富国強兵策が進んだ30年程度の時間差が、数字であらわされる経済規模以上に軍事力を含む国力の差であったのでしょう。
国力という点で日本は、大国としてのポテンシャルを有するものの、主として西欧諸国に30年から80年程度の差をつけられていた、と思われます。帝国主義という国家利害が力と力でぶつかり合う当時の世界に於いては、非常に危険な状況であったことは事実でしょう。
ただ、その時期、膨張するヨーロッパ帝国主義の周辺で、中国、インドに加えトルコ、エジプトといった世界の立ち遅れた大国の中で「日本だけが独立を保ちながら自らを改革し、最終的には列強の仲間入りをするにいたった」ことに関して、我々は先祖たちを誇りに思って良いと思います。
その理由に関してとしては、東京大学の山内昌之先生が色々と分析をされていますので、機会が有ればぜひ本を購入して読んでいただきたいと思います。
私はその理由は、前述した【1】地政学的な幸運に加え、【2】支配層の志の高さ、【3】国民個々の能力と倫理観の高さ、そして【4】前向きな忍耐力、であったのではないかと思っています。
富国強兵、文明開化、殖産興業 キーワード、スローガンの時代
明治維新から大日本帝国憲法の発布と国会開設に到るおよそ20年は、日本はおろか世界の歴史上、最も大きな近代化のスピードを経験した時期であると思います。そして、その結果、日清、日露の両戦争に勝ち、日本は列強の仲間入りをしました。しかし、その一方で、統帥権の独立という最大かつ本質的な問題を内在させてしまった原因は、当時の指導者たちの甘い見通しによる判断でした。

1868年の明治維新の年、日本各地は戦争に明け暮れました。その中、「御親兵」という天皇の軍隊、すなわち日本軍の原型が薩摩長州を中心にした勤皇藩の拠出により成立しました。
そして1871年に鎮台の武力をバックに行われた廃藩置県は、半ばクーデターのような新政府による旧来権力である藩主からの統治権剥奪です。ここで日本は地域主権の連邦体制から、一気に平城京時代の中央集権体制に戻りました。
1873年の新貨条例で通貨を統一、全ての藩の藩札を新政府の太政官札と等価で交換しました。インサイダー情報に基づき暴落した藩札を買い集めていた岩崎弥太郎は、等価交換で得た巨万の富で三菱グループの礎を築きました。更には秩禄処分で当時の公務員であった武士を大量に解雇。武士たちは、不平不満から数々の反乱を起こしました。
それが頂点に達した西南戦争の敗者である西郷隆盛、そして後を追うように暗殺された大久保利通の後継者たちはその後も改革を続け、1889年には大日本帝国憲法の発布と第1回の衆議院選挙を実施しました。これは、1868年の明治維新から21年後のことでした。
この間わずか21年です。1990年のバブル崩壊から今年は21年目、比較するに、とても同じ時間とは思えません。ちなみに、日本が変われない21年の間に、世界は1989年のベルリンの壁崩壊から劇的に変化したのは第1回で説明した通りです。
このように日本を変える力の源は何だったのでしょう。
これに関しては語られていますが、筆者が考える最大の理由は、明治維新の成功要因と同様、強力な中央集権のもと指導者の高い志に基づいたリーダーシップと能力の高い国民だったと考えます。
当時の日本では、帝国主義の世界に於いて富国強兵という判り易いスローガンのもと、軍事優先主義と呼んで良い軍事力増強政策がとられました。
それを端的に示すのが、「高等教育の整備」です。そもそも東京大学医学部は、軍医を養成するために設立されました。工部大学校(今の東京大学工学部)は、兵器や爆弾を研究するために設立されました。そして黒船襲来以降、欧米の書物を頼りに模型の様な高炉や反射炉や造船所で、軍艦や大砲を作ろうとした人たちの努力は、自前の官営八幡製鉄所と長崎造船所に結実しました。
東京大学(現在の東京大学法学部)は、石炭や金・銀を輸出し外貨を稼ぎ、絹織物を生産する繊維産業を始めとした富国のための産業を育て重税を徴税し、その全てを用いて武器を購い、殖産興業の投資を賄う事を司る能吏を育てるために、設立されました。
この3つの学部に加え、ネーションステーツの文化的基盤を作る為に日本史を整理し、西洋文化を吸収するための基盤として西洋の語学や文化研究を行う文学部に、軍事の為に重要な天気予報や地図作成に加え工学や医学の背景となる物理や化学の理論研究を行う理学部が、設立当初の東京大学における5つの学部でした。
そして黒船襲来からおよそ60年、日清、日露の両戦争の勝利から不平等条約を解消し晴れて列強の一員となるまで、日本は一丸となって努力した結果、西欧に「追いつく」ことを実現したのです。
ただ一方で、将来に向けての問題もこの時期に内包されました。その最大のものが、統帥権の独立という問題です。大日本帝国憲法において、軍の統帥権(最高指揮権)は天皇にありました。その中で、作戦・用兵に関する統帥に関しては、武官である参謀総長及び軍令部総長が、輔弼(補佐)するものと解釈されていました。
この時期、軍事優先政策は当然であったと思いますが、マックス・ウェーバーがいうところの「暴力装置」の最たるものである軍に、文官のガバナンスが決定的に欠落していたことは、後に、大きな悲劇を生む根本的な原因となりました。
それは優れたリーダーであった当時の指導者たちにとって、痛恨の失敗であったと言えるでしょう。
「和魂洋才」といっても、所詮は自ら血を流しつつ経験に基づいて作り上げて来た制度では無かったことが、こうした致命的な過ちを生んだといえます。輔弼する元老たちにより、天皇の権威によるコントロールが可能であると、指導者たちは考えたのでしょうか・・・
五・一五事件や二・二六事件の際、天皇が信頼する元老や内大臣は常に襲撃のターゲットになりました。そして、五・一五事件では文官である首相が暗殺されたにもかかわらず、特に軍人に対して判決が甘かったのは、国民の中で強い助命嘆願の世論が巻き起こったからです。国民も同様に、軍のガバナンスに関しては無知であったのです。
帝国憲法制定の当時、人間は過ちを犯すものであるとの前提で、西欧の有識者たちとの徹底した議論によるレビューがあれば、このような致命的な欠陥が内在されることは無かったのではないか・・・・筆者は残念でなりません。
このように日本の組織の統治、ガバナンスが弱いのは、もともと西洋からの借りもののシステムのもと、ともすれば同質的な日本人が運営をすることに起因するところにあると、筆者は思います。企業における社長のツマラナイ独走を招いたり、逆に強力な変革に向けた強いリーダーシップを組織文化として阻害するなど、その表象は今の日本においても多くみられるところです。
参考までに、「統帥権独立の考えが生まれた源流」をWikipediaより転載しておきます。機関として、天皇のもとで「暴力装置」を管理するために必要な制御装置の準備が、充分な経験と認識による実感が不足していたために不十分であったであろうことが、結果論かもしれませんが良く判ります。
『当時の指導者(元勲・藩閥)が、政治家が統帥権をも握ることにより幕府政治が再興される可能性や、政党政治で軍が党利党略に利用される可能性をおそれたこと、元勲・藩閥が政治・軍事両面を掌握して軍令と軍政の統合的運用を可能にしていたことから、後世に統帥権独立をめぐって起きたような問題が顕在化しなかったこと、南北朝時代に楠木正成が軍事に無知な公家によって作戦を退けられて湊川で戦死し、南朝の衰退につながった逸話が広く知られていたことなどがあげられる』
いずれにしても、近代化を駆け抜けながら日清、日露の両戦争に勝利をおさめ以下に示すように、日本は、「大国のポテンシャルを有する途上国リーグ」からおよそ今から100年前に抜け出し、1850年のドイツ並みに豊かになりました。
ニッポンはいつから変わったのか。変節のポイントとして上げるならば、まずは1910年頃。ニッポンは「途上国」から脱したのです。そして、その時点から今まで100年の間で何が起きたのか。次回はそれを振り返ってみたいと思います。