2011年2月9日水曜日

食品関連企業経営者対象「食品リサイクル戦略セミナー」


豪華講師陣による食品リサイクル実践の成功ケース全貌公開!

【第一講座】
農林水産省総合食料局食品産業企画課食品リサイクル班
前島仁課長補佐(班長)
 ・内容
 農水省で策定される、食品リサイクルに関する法律・法令の動向や、
 2011年4月以降、食品関連企業の皆様が活用できる食品リサイクルに
 関する補助事業等の解説。

【第二講座】
㈱東急グルメフロント代表取締役
東急電鉄㈱リテール事業本部事業統括部長・木村知郎社長
 ・内容
 環境対応、地域・顧客貢献、資源循環を目指しつつ、ビジネスチャンス
 としての戦略も踏まえ、2009年4月に食品リサイクルプロジェクトを発足。
 H22年度農水省補助事業を活用しながら、半年で食品リサイクル率
 基準達成に向けた実行計画を完成し、食品リサイクルループ形成の
 実現を描く経営者のビジョンと、現場実態の公開。

【第三講座】
エム・アイ・コンサルティンググループ㈱
ディレクター、アグリ事業部統括・熊本伊織
 ・内容
 食品リサイクル実践プロセスの設計図「IFRF」の公開、解説。
 食品リサイクルへの取り組みによって、食品企業の農産物仕入れが
 他社差別化・競合優位となる食品リサイクル戦略の組立て方と
 進め方の解説。

【開催概要】
■開催日時
 2011年2月9日(水) 13:30~16:00

■プログラム
◎第一講座(13:30~14:00)
・食品リサイクル時流、法律法令、補助金に関する解説
・平成23年度農水省補助事業全貌
・講師:農林水産省 総合食料局 食品産業企画課 課長補佐 前島仁氏

◎第二講座(14:00~14:45)
・わずか半年で導入!食品リサイクル及び食品リサイクルループ形成
  実践事例公開
・講師:㈱東急グルメフロント代表取締役 兼 
  東急電鉄㈱リテール事業本部統括部長 木村知郎氏

◎第三講座(15:00~16:00)
・食品リサイクルの卸・外食・小売"業態別"事例公開
・食品リサイクル戦略設計基準
  「IFRF(Integrated Food-Recycle Framework)」の公開

◎第四講座(16:00~16:30)
・質疑応答及び交流会

■対象
 食品卸、食品小売、外食企業の代表者、経営者、部門責任者の方
■参加費
 1名5,000円(税込)
■定員
 50名
■会場
 都内セミナー会場(日比谷)
■申し込み


2011年2月8日火曜日

契約コンサルタント登録

現在準備中ですので今しばらくお待ち下さい

外部コンサルタントの調達

現在準備中ですので今しばらくお待ち下さい

戦略的営業改革

現在準備中ですので、今しばらくお待ち下さい

人材拠出型コンサルティング

現在準備中ですので、今しばらくお待ち下さい

2011年2月1日火曜日

“大国”の仲間入りしたのは100年前~「日本型システムはどこで生まれた?」 「日本人って何?」に答えるための「超・近代史」(後編)

ニッポンとは何か? それを考える材料として、私なりに明治以降の歴史を振り返っています。前回は、明治以前の時代も含め、そもそも日本がなぜこのような歴史をたどり今のような社会・文化的特徴を有する国となったのか、から考え、1910年、ちょうど100年前まで辿りました。100年前に、日本は途上国から脱しました。そしてそれ以降の100年、現代にいたるまでに何が起きたのでしょうか・・・今回はそれを駆け足で見ていきたいと思います。

遅れて来た近代国家の歪みによる破綻

 日露戦争から満州事変辺りまで、大日本帝国は最も幸福な時代を迎えていました。しかし、権謀渦巻く世界にあって、最も遅れて列強入りした真面目で幼稚で余裕が無い日本は、軍国主義化に歯止めをかけるガバナンスとリーダーシップの欠落で、無謀な戦争に突入しそして敗戦に到りました。

 
帝国主義の世界の中で、日本はその生命線を「大陸」に求めました。ロシアの南進を食い止めるための朝鮮半島をめぐる戦争であった日露戦争に勝利したことで、日本は朝鮮を併合し初めての本格的な植民地経営に乗り出しました。欧州が第1次世界大戦の戦乱に明け暮れる中、満州を中心にした中国への侵略を進め、革命で混乱するロシアでも反革命勢力を支援するという名目で、シベリア出兵では野心的に諸外国に比べはるかに多くの兵を送り、何の見返りも得られずに損害を出しつつ他国の領土を混乱に陥れただけでした。
 政治や社会は一定の進化を遂げ、大正デモクラシーと呼ばれる政党政治や成人男子による普通選挙が実施されるに至りました。1911年における不平等条約の解消からおよそ20年の間、日本はさしずめ小春日和と呼んで良い状態にあったと言えるでしょう。


1930年の日本と世界主要国の人口及びGDP
国名
人口(1000)
購買力平価GDP
(1990
百万国際ドル)
一人当たりGDP
(1990
国際ドル)
中国
489,000
277,752
568
インド
36,400
26,426
726
日本
64,203
118,776
1,850
ドイツ
65,084
258,579
3,973
アメリカ合衆国
123,668
768,349
6,213
イギリス
45,866
249,557
5,441
Angus Madison(故人)のホームページより

 1930年に入ると、軍人を中心に「構造改革」の声が高くなってきました。当時の社会で、厳しい環境ではあるが年齢の若い段階で給与を貰うことができた職業軍人志望者は相対的に貧しい者が多かったので、より社会の矛盾に関して敏感でした。天皇を頂点とした日本の国体と全く相容れない共産主義への嫌悪と恐怖もあり、若手が中心に引きずる暴力装置と化した日本軍は、そのネガとしての国家社会主義的な方向へと日本を向かわせて行きました。
 西欧的な民主主義に対してこのような嫌悪と恐怖を、現在の中国共産党の一部および共産党の軍隊である中国軍は感じているかもしれません。
 いっぽうヨーロッパでは既に、帝国主義のほころびが目立ち始めていました。帝国主義の象徴である大英帝国では、第一次世界大戦の勝利にもかかわらず各地で独立に向けた民族運動や紛争に直面し、帝国主義に対する批判的な世論は徐々に高まっていました。
 日本は大きな時代の流れに逆らうように満州事変から満州国建国、そして八紘一宇の精神に基づく「大東亜共栄圏」の幻想に向けて突き進みました。大局観を持った国家としての戦略を時代の流れの先に描く人たちは、息をひそめて見守る事しか出来なかったのでしょう。
 満州事変から満州国建国、軍による幾多のクーデター未遂に1つの大きなテロと呼んでも良いクーデターの失敗の間、ジュネーブの総会で国際連盟脱退を流暢な英語で宣言して来た全権・松岡洋右を、国民は喝采で迎え、日本のマスコミは大日本帝国は「名誉ある孤立」を選択した、と論陣を張りました。

国家社会主義で成功を収めているように見えたナチスドイツとの同盟から日中戦争の泥沼への突入へ、シビリアンである政府と軍、軍中枢と関東軍を始めとする現地軍と、「暴力装置」に対して二重にガバナンスの効かない状況の中、現地軍を実質支配しそれを軍中枢で支える「構造改革」の志に燃えたかつての青年将校たちは、皇道派と統制派に分かれ血なまぐさい争いと内ゲバを繰り返しながら、日本を戦争への一本道に駆り立てて行きます。
 そして多くの国民およびメディアの熱狂的な支持のもと、日本は太平洋戦争に突入しました。

「1940年体制」とは何か

 日本の優秀な官僚たちは、戦争に向けて国家の生産性を最大限に向上させるため「1940年体制」を構築しました。それは戦争遂行にも一定程度役立ちましたが、戦後に於いても存続・強化され、日本の高度経済成長を実現する大きな原動力になりました。

 
明治維新から20年で西欧風の中央集権国家システムを完成させた日本の優秀な指導層である官僚たちは、この時代にはソ連の共産主義やナチスドイツの国家社会主義における成功要因を学び、満洲国における実験を経て、戦争に向かう国家生産効率最大化の仕組みを日本文化に適合する社会システムとして完成させました。それが、野口悠紀雄先生が定義した「1940年体制」です。
 そして、それら官僚の代表的な存在が、戦後の安全保障体制確立を、国民の猛反対をものともせず職を賭して推進した岸信介です。以下、野口先生の著作にある内容を、簡単におってみましょう。
 先ずはお金の管理です。自由市場は、人間の欲望を効率的に利用する資本主義の根幹ですが時に暴走します。戦争という非常時に於いては、欲望の利用は優先順位が下がるため、弊害の大きな資本市場は抑制され、銀行を中心にした間接金融方式に移行されました。
 そして、日銀による強力な銀行統制、そして大蔵省による強力な日銀統制の権利を与えるため日銀法が改正されました。税金をより多く徴収するため、累進性の高い直接税中心の税体系に改めると共に、徴税強化を効率的に進めるため給与源泉徴収を開始しました。
 また、国民が後顧の憂い無く生産の仕事に没頭できるよう(積立金で国債を購入し戦費として活用する意図もあったのでしょう)、公的年金制度が設けられました。
 企業は株主のものではなく、経営者、顧客、従業員その他ステークホルダーのものでも有り、企業活動の目的は利潤では無く生産であるという資本主義を否定する議論が、会社法改正による資本と経営の分離を受けて広く一般に伝えられました。
 現在の日本経団連のもとになる「産業別統制会」は、鉄鋼産業を皮切りに22の団体が設立されました。労働者の組合として産業報国会が設立され、政府と企業労使が一体となり効率的な生産に邁進しました。因みに、産業報国会は、現在の産業別企業組合の組織に引き継がれています。
 農業生産を促進するため「食糧管理制度」が設けられ、小作農家に大幅なインセンティブが与えられました。戦後行われた農地解放の原型は、既に1940年の総力戦体制の中に存在していたのです。また、戦地に赴く兵士の家族が金銭的な理由で簡単に住処を失うことが無いように、借家人の権利を大幅に保護した借地借家法が出来ました。
 これらの私権を大幅に制限する大改革は、戦争という非常事態の中であったから可能になったものです。それまでの日本における経済のシステムは、明治以降、福沢諭吉や渋沢栄一といった自由主義者たちが主導し、財閥をはじめとした民間資本の集中的な蓄積が有ったため、比較的自由な民間主導の仕組みであったものを、一気に社会システムを再設計し構造改革を推し進めたのが1940年体制です。

そしてそれは、日本人の文化にも合い、とてもよく設計されていました。彼我の軍事力の差が大きな中、戦争には負けましたが、公職追放によって著しく若返った優秀な指導者層のもとこのシステムが有効に機能したために、戦後の奇跡的な経済成長がもたらされたのは、歴史が証明する通りです。1940年体制というのは、余りにアナクロだったのでしょう、我々は戦後それを「日本型経営システム」と呼んでいました。
 そしてこの日本型経営システムは、今でも日本と日本人の中に、有形無形の状態で多く残っています。中国、韓国、シンガポール、マレーシア、台湾、成長を続けるアジアの国々にも、この日本型経営システムのパーツを、今でも見る事が出来ます。

戦後、高度経済成長、そして第二の敗戦

 戦争で多くを失った日本は、その冷戦構造における地政学的な位置の優位性により国土を分断される事も無く、軍事・経済の両面におけるアメリカの庇護のもと、1940年体制をフル回転させて高度経済成長を成し遂げました。しかし現在の日本は、冷戦構造の終結と豊かになり過ぎた反動の中、新しいモデルへ転換する事も叶わず1990年のバブルを頂点に長い停滞の時代を迎えています。




1945年における世界の主要国の人口とGDP
国名
人口(1000)
購買力平価GDP
(1990
百万国際ドル)
一人当たりGDP
(1990
国際ドル)
中国
532,607
-
-
インド
410,400
272,506
664
日本
76,224
102,598
1,346
ドイツ
67,000
302,438
4,514
アメリカ合衆国
140,474
1,644,810
11,709
イギリス
49,182
347,028
7,056

Angus Madison(故人)のホームページより


 沖縄を始め諸島、満州・朝鮮、そして広島・長崎における大きな悲劇は有りましたが、幸いな事に本土4島は無血開城することで日本は終戦を迎え、スローガンを「進め一億火の玉だ」から「一億総ざんげ」に、一夜にして改まりました。
 ヒトラーのドイツが、「自分(ヒトラー)を指導者として選任した責任を果たすため、首都のドイツ国民は軍民問わず最後の一人まで自分を守れ」との命令のもと、ベルリンで壮絶な市街戦を行い瓦礫と死体の山を築き、戦後の長きにわたり国家分断の悲劇を経験したことに比べれば、日本は相対的に幸運であったと言えるでしょう。
 明治維新における江戸城の無血開城と言い、我々はこのような論理的にとことん突き詰めることで発生する悲劇を避けるための智慧と文化を、誇りに思うべきであると思います。
 その時日本で最も忙しかったのは、当時の指導層であった官僚たちです。占領軍を迎えるための準備と可能な限りの証拠隠滅が、昼夜を分かたず続けられました。
 1940年体制を作り上げた中心的存在であった軍需省の看板は、マッカーサーが到着するまでに全て商工省(現在の経産省)に掛け替えられました。物が無く通貨が余る状況でインフレが高進し、預金は封鎖され旧円は新円に切り替えられ、戦争中の政府債務は100%課税という方法で結果的に棒引きされ、資産には過酷な資産税が掛けられました。そして一定年齢以上の指導層の殆んど全てが公職から追放された結果として、旧来の指導層や資産家は没落し、日本の運営は国も民間も若い次世代にお金も権限も委ねられる結果となりました。
 このような大胆な施策は、全て超法規的権力を有するGHQの指導と承認のもとで行われました。日本にとって幸運であったのは、アジア地域で冷戦の最前線に位置するという、地政学的な位置でした。結果として固有の領土をほとんど失わず、国家が分割される悲劇も無く、近隣にある朝鮮半島の悲劇を経済成長の踏み台にする事が出来たのは、最前線の不沈空母兼補給基地であるお陰です。黒船襲来時点の折の幸運は、ここでも機能したのです。
 更には、日本の社会システムに関するGHQの無知に付け込んでごまかすテクニックも、有効に機能したでしょう。
 戦後の経済危機状態の締めくくりに、テキサスの銀行家ジョセフ・ドッジが経済顧問として来日し、既に編成されていた予算を40%カットした超緊縮予算に作り替え、大きなデフレ不況に見舞われる中、1$=360円というかなり日本に甘い円安の固定レートが定められました(円だから360度なので360円、とマッカーサーが決めたという神話まで有ります)。翌年の朝鮮戦争の勃発は、徹底的に整理されリーンになり円安というハンディを貰った日本経済に格好の再出発の機会を与えました。

そして、その一連の混乱の中で、1940年体制はより強化・洗練され、あらゆる意味で準備を整えた日本はサンフランシスコ講和条約の締結から、高度経済成長への道を歩み始め、現在の中国と同様に一本道をまっしぐらに世界第2位の経済大国に上り詰めたのです。


1969年の日本と世界主要国の人口及びGDP
国名
人口(1000)
購買力平価GDP
(1990
百万国際ドル)
一人当たりGDP
(1990
国際ドル)
中国
796,025
567,566
713
インド
529,000
447,005
845
日本
103,172
915,548
8,874
ドイツ
77,144
805,383
10,440
アメリカ合衆国
202,677
3,076,434
15,179
イギリス
55,461
585,224
10,552

Angus Madison(故人)のホームページより

 1971年の金ドル交換を停止するといういわゆるニクソンショックは、結果として戦後30年近く続いたブレトンウッズ体制を終焉させ、変動相場制への幕を開きました。
 長年続いた米国の庇護のもと、資本主義の根幹であるグローバル金融に無知であった日本は、金ドル交換停止よりも10%の輸入課徴金に大騒ぎをし、先進国で唯一外為市場を開け大量のドルを買い続け大きな損失を被りました。挙句、日本は年末のスミソニアン会議では、議論の最後となった円に対して最大の切り上げ幅を、大蔵大臣水田三喜男代表の指揮する代表団が答えに窮し言い淀む間に押し切られるという、およそ世界第2位の経済大国とは思えない無様な姿をさらしました。
 それでも、ニクソンショックとオイルショックを乗り切った勤勉かつ強靭な日本経済は、1985年のプラザ合意では大幅なドル安への為替調整を飲み、米国への輸出を自主規制しました。懐が深く豊かであったアメリカ経済もそろそろ余裕が無くなり、「いい加減にしろ!」といった感じであったのでしょう。
 ここで講じた景気対策が過剰流動性を生み、1940年体制が身の丈に合わなくなってきた弊害に、「JAPAN AS NO1」の驕りと緩みと併せ、あの狂ったようなバブルを生んだことは、40代以上の人達には未だ忘れ難い思い出です。
 毎夜タクシーが夜中の2時3時までつかまらず、皇居の土地でカリフォルニアが、東京の土地でアメリカ全土が買えると言われた時代、日本全体が明らかに狂っていました。


1989年の日本と世界主要国の人口及びGDP
国名
人口(1000)
購買力平価GDP
(1990
百万国際ドル)
一人当たりGDP
(1990
国際ドル)
中国
1,118,650
2,051,604
1,834
インド
822,000
1,043,940
1,270
日本
123,108
2,208,927
17,943
ドイツ
78,645
1,302,204
16,558
アメリカ合衆国
247,342
5,703,459
23,059
イギリス
57,324
940,916
16,414

Angus Madison(故人)のホームページより

 そして1989年の天安門事件以降のニッポンは、既にその多くをこの連載の第1回で書いたとおりです。
 2つだけ、キーポイントを付け加えたいと思います。
 いずれも、1997年のアジア金融危機に端を発したことです。
 日本は対外資産の蓄積があったので、各国のように国として破綻に瀕することはありませんでしたが、それでも山一証券や日本債券信用銀行、日本長期信用銀行など、幾つかの大手金融機関が破綻しました。そして、多くの企業が破綻に瀕し、日本は破綻型の再生を自己責任で行う必要に迫られました。
 この時、大蔵省と日銀は流動性の危機という資本主義の暴力的な波に関して、余りに無知でした。また、企業破綻と再生に関するノウハウは、裁判官や弁護士、会計士を始め銀行や証券会社、官民のどこにもありませんでした。
 結果として、貴重な国富が多く海外の証券会社やファンドに流出するに至りました。外資系のコンサルタントとしては、多くの仕事にありつきましたが、この時期の私はとても複雑な心境でした。もっと当時の指導層が謙虚に勉強して洋才を活用していれば、あるいは、経済インテリジェンスの能力をもっと持っていれば、あのような破目には陥らなかったと思います。

もう1つは、アジア版IMFもしくはアジア共通通貨への道筋を付けるが出来ていれば、ということ。外務省にもう少し経済への配慮やリテラシーがあれば、大蔵省に国際的な知識とネットワークがあれば、省壁を超え経産省・大蔵省・外務省の三省ががっちりスクラムを組んでいれば、日本政府にインテリジェンスの基盤があれば、そして強くて胆力のある政治的リーダーが居れば、我々日本のアジアにおける地位と現状は今と全く違ったものになっていた可能性があります。残念でなりません。

未来に向けて

 未来に向け、我々の課題は改めて坂の上の雲の中、未来を切り開く事が出来る指導層の育成ではないかと思います。そのためには、悪しき平等主義は廃し、選抜者教育を進めて行く必要があります。


 黒船襲来から、軍事優先で坂の上の雲を目指した我々は、社会システムとして「暴力装置」に対するガバナンスを持たないまま(これはドイツも同様だったのでしょうか)、無謀な戦争に突き進み敗戦を迎えました。しかし、戦争のために作り上げた「日本型経営システム」を、戦後の占領下において優秀な官僚たちは巧みに温存・強化して、その結果我々は世界第2位の経済大国の座に到達するという成功を獲得しました。
 しかし、現在、国家債務は増大し、1940年体制の名残である郵貯や年金を蝕み、国と国民の劣化は進行しています。一方で、明治維新と高度経済成長が同時に進行し強力で独立した軍を持つ中国が台頭する状況は、1930年代の日本と中国の状況を、一部立場を変えつつ奇妙に彷彿させるものがあるように思えます。
 中央集権のもと、優秀な指導者として官僚を戴き、労使一体となって真面目に良く働くことで、我々は明治維新から二度の成功を収めて来ました。しかし現在、必ずしも全ての官僚は優秀な指導者では無いように思えます。特に外的な環境変化と、システムの変革に弱い人が多い。
 一方で、政治主導としてそれに代わるべき政治家は、一概に言えば勉強と経験不足で、これも必ずしも全て優秀な指導者では無いように思えます。労使は未だましかもしれませんが、かつて戦後に腹を空かせた人間や、旧制高校などで強烈な選民教育を受けた人間達が居なくなった状況で、社会全体と軌を一つにして、徐々に劣化が進んでいるように思えます。
 戦後の日本改革の中、将来日本が再び競争者としてアジアの覇権を目指さないようにするために、GHQは様々な楔を憲法と極東軍事裁判以外に打ち込んで行きました。筆者が考える代表的なものを、以下に挙げてみます。
・過度な平等意識と自由主義の啓蒙
 人はみな平等であり、過度に競争をあおるような比較は良くないし、結果もある程度平等でなくてはいけない。そして、人に迷惑をかけなければ、自分のやりたい事をやることは自由である。
・地政学と地政学的思考法の削除
 地政学の研究を禁止するとともに、歴史認識から俯瞰的かつ地政学的要素が、意図的に取り除かれました。
・インテリジェンスの排除
 情報機関の設立を認めずスパイ防止法も制定しなかった為、日本にはインテリジェンスが育たず、スパイ天国となりました。ただ、官公庁や企業に於いてインテリジェンスが育たなかった、あるいは衰えたのは、個々の組織の怠慢かもしれません。
 そして今でも日本には首都近辺を始め多くの米軍基地が配置され、日本国軍である自衛隊は米軍と組み合わせることで軍隊として機能するよう整備されています。このような状態にある先進国は、世界で唯一日本だけでしょう。
 我々は、将来を視野に入れ指導層たりうる人材を育てるための選民教育を、社会の各所で再構築すべきではないでしょうか? 悪しき平等主義から決別し、指導者層の人材を育成していけば、どのような混乱を迎えても、日本は立ち直る事が出来るのではないかと思います。
 黒船襲来の時点では、武士という階層がいました。敗戦の時点では、焼跡に日本の再興を期する戦前のエリート教育で鍛えられた人材が居ました。そして、公職追放を経て指導者層が一気に若返りシステムが温存・強化された事は、述べて来た通りです。ここから先、必ずや大きな試練を迎えるであろう日本を、指導する事が出来る本物の指導者層がどこにどれだけ居るのか。霞が関、政治家、財界人、学者など、現在の指導者層のことがある程度肌感覚で分かる筆者は、とても不安でなりません。

次回に向けて

 戦後の成長、そして三度にわたる金融を中心にしたグローバル資本主義に対する「日本型システム」が迎えた敗戦は何だったのか、その事を皆さんに問題提起してきました。
 次回は、このような歴史の中で日本の企業がたどって来た変遷を振り返りつつ、一般論として日本企業の将来に向けての課題に関して論点提示を行いたいと思います。