2011年3月17日木曜日

日本は再び、「新商品」を産み出せるようになるか(後編) 古河鉱業からファナックまで~確率や期待値を超えた夢を持つ人たちとは

前編から)
 いま日本が明治維新以降140年以上かけて進めてきた軽工業から重工業に到る近代工業化を、中国は僅かこの20年の間に日本の技術や資本を活用しつつ、華僑ネットワークを使い溢れる世界の資本を上手に引き寄せ活用しながら、各分野同時並行的に猛烈なスピードで進めて来たといえます。かつて1800年代から1900年代にかけて、押し寄せる帝国主義諸国に良いように食い物にされた経験を、反面教師として充分に活用したのでしょう。
 明治維新からの日本近代産業史を手繰ると、それまでの伝統的技術の上に西欧から導入された技術が上乗せされた流れがあります。
 最も初期から発展して行ったのは、鉱業からの流れです。換金性が高い優良な鉱山を所有していれば、稼いだ外貨で海外から開発法を始めポンプ、掘削、製錬、発送電、機械加工などおよそ考えられるありとあらゆる技術を購い、次にその技術を国産化して行くことで新しい事業を産み出すことが出来たのです。石炭と銅は、コンスタントに輸出の10%近くを占める外貨獲得の優等生でした。
 明治時代、日本は諸外国に土地の租借は認めず、鉱業権その他由来の権利を海外からの借金に対して抵当に出すことはしませんでした。また、鉱山で稼いだ資本家たちは、その富に安住するのではなく、次の産業を開発するための投資を行いました。近親主義や自己利益に走り「国を売る」指導層を持った結果、半ば植民地のようになってしまった国も多かった中、我々の先祖は富国強兵のスローガンを国として掲げ、決して安易な途に陥りませんでした。
 結果、鉱物資源という地球から人類への贈り物を土中より掘り出し続けることで、産業化の初期段階に於いて多様な技術を扱い価値の拡大再生産を行う鉱業は、我が国の中に幾つもの財閥、コングロマリットを産み出して行きました。資源に恵まれた多くの国々で出来なかったことを、我々の先祖は成し遂げたのです。ここでは、そのようなコングロマリットの1つである古河グループに関して、その源流である古河鉱業からFANUCに至る流れを見ながら、
 そこに至る迄の成功要因、そして今日における課題を、歴史、産業、そして企業組織の観点から俯瞰しつつ、議論して行きたいと思います。
 

古河鉱業の祖は古河市兵衛、出は京都の商家であった者が高利貸の手先や勤務先の倒産など苦労しながら、才能もあったのでしょう、良い養子の口に恵まれました。ちなみに、江戸時代までの封建制度の社会に於いて、基本的に職業は世襲でしたが、実子が居ない場合は当然のこと、実子が居ても才能に欠ける場合にはその実子を他家に養子で出した上で、能力がある養子を娶ることは良く行われたようです。封建制度における知恵は、中々したたかです。
 市兵衛は、勤務先であった小野組が倒産した際、潔く会社の整理を行い自らの私財をすべて提供し無一文になりました。その後市兵衛は、それを見込んだ渋沢栄一の資金援助を得て、足尾銅山を始めとする幾つかの鉱山経営に乗り出し近代化に成功したことで古河財閥を誕生させました。
 市兵衛は陸奥宗光にも大いに気に入られ、その二男を養嗣子として娶りました。そして、政党政治家として初の首相になった原敬は、抜群の政治的センスを活かし外務官僚に採用された後、古河の二代目社長に就任したその養嗣子古河潤吉に、同じく彼を引き立てた陸奥宗光の縁で請われ、その時期古河鉱業会社の副社長を務めていました。
 同時に伊藤博文が設立した立憲政友会の初代幹事長にも就任していた彼は、その後西園寺内閣の内務大臣に就任したことで古河鉱業を離れます。
 当時、有為の人材は政産官の各領域でリボルビングドアを通して行き帰しつつ育っていたことが、このような例で良く判ります。
 今の日本ではこの政産官の壁が高く、最近は交流まで厳しく制限されるようになって来ています。この壁の弊害が、現代日本のリーダーシップにおける問題の主たる原因の1つであることを考えると、このような産官政の人材交流を積極的に進めて行くこと、一考の余地があると思われますが如何でしょう?

合併で生まれた古河電気工業

 1920年、古河鉱業が創業した幾つかの電線会社が合併し、古河電気工業が設立されました。新たな事業を自ら作るために分社する力が多くの子会社を生み、それが集約された結果です。現在、多くみられるような、徒に社長ポストや天下り先を作るだけの大企業の子会社とはダイナミズムが違います。
 そして、創業時からシーメンスとの取引関係の深かった古河鉱業とシーメンスの交渉を古河電気工業が引き継ぎ、1921年に古河の「ふ」とジーメンス(ドイツ語読み)の「じ」と両者の頭文字を取る形で、富士電機製造が東芝、日立、三菱電機に次ぐ重電機メーカーとして設立されました。
 さて当時、シーメンスは日本に深く事業基盤を築いていましたが、シーメンス事件でその基盤は大きく揺らいでいました。更には、第一次世界大戦で敗戦国であったこともあり、日本における立場が苦しかったのでしょうか、シーメンスは1923年に10:3での合弁会社として富士電機を設立する時点で多くの事業を譲渡したのに次ぎ、1925年にはその日本における電話事業を富士電器に譲渡しました。
 そして、1935年には、富士電器の通信機部門が独立し、富士通信機製造(現在の富士通)が設立されました。新たな事業を産み出す力が、内部から強く働いた結果です。また、戦争に向かう日本に於いて、通信機やレーダー、計算機といった軍事戦略的な電子技術は極めて重要であり、富士通はそれを担う重要な軍需企業でもありました。
 戦後の富士通では、多くの軍事関係のビジネスと技術や設備を失いました。
 しかし、若くて優秀な日本復興の希望を抱く技術者を中心にした社員が残りました。
 そして彼らは、その再建の中で幾つかの極めて戦略的な決断を行います。
・富士通の事業をCommunication、Computing、Controlの3Cと定める。
・その時点で利益を上げている通信(Communication:交換機や電話機)から、赤字の計算機(Computer)、制御装置(Control)の両方に対し、大胆に投資をする。
・併せて、有能な人材を計算機事業に傾ける。
・古河本家、宇部興産の有能な経営者であったが通信や計算機ビジネスに縁の無かった68歳の岡田完二郎を社長に招く。
 戦後の日本における通信機製造会社にとって、これがどれだけ野心的で、実行の難しい戦略であったかは想像に難くありません。


もし、あなたが事業責任者の立場であったならばどうする?

 もし、あなたが、利益をコンスタントに稼ぎだす事業部門の一員であれば、如何に将来の可能性有る新規事業でも、海外に遥かに先を行く競合企業がいくつも存在し、足元には事業基盤となる市場や技術など殆んど何もない状態で、果たして自分たちの給与まで犠牲にしてそれに湯水のように人材も含め投資することを、許容できるでしょうか? ましてやそれが、それまで業界に居なかった高齢の新任社長の指示であったとなら?
 彼らは、会社として個人として、それをやったのです。そこには集団の意志と優れたリーダーの存在が見てとれます。以下、何人かの代表的な登場人物を見てみましょう。


尾見半左右
3Cを提唱したビジョナリーな技術者。小林、池田、稲葉等の気鋭のリーダー候補を、厳しくそして温かく育てる。専務で退職した後、情報産業の人材育成に強い情熱を傾ける。


小林大祐
戦時中は帝都防衛システムを研究した、マネジメント能力の高い技術者。池田、稲葉という優れた個性の強い技術者を使いこなしながら育て、のち社長に就任。出社せずとんかつ屋で狂ったように仕事をする部下の池田に給与を払うため、人事部に掛け合い特例人事制度を用意したエピソードは有名。


池田敏雄
富士通の2つ目のCである、コンピュータ開発を率いた天才技術者。数多くの天才らしいエピソードで知られるが、優秀なセールスマンでありマネジメントでもあった。猛烈に働きながら、海外からのバイヤーを迎える羽田で倒れ死亡したこと、戦死と称えられる。プロ級の囲碁打ちでもあり、日本棋院に囲碁ルールの論理矛盾を指摘、その改善策を提示した功績で6段を贈られている。


稲葉清右衛門
富士通の3つ目のC、コントロール(制御装置)ビジネスを率いた天才技術者にして起業家。社内ベンチャーとしてFANUCを創業した際、朝7時に大手町の本社に出社し、一人ひとりの営業に指示を与え送りだした後、川崎の工場に向かい開発、製造を統括、夕方には再び本社に戻り客先より戻って来る営業からの報告を全て受け翌日までの仕事を指示、夜は得意先の接待から部下とノミュニケーションの後深夜帰宅、という猛烈な指揮官であったと伝えられる。


岡田完二郎
敗戦時古河財閥の社長であった。富士通に強力なリーダーが必要であった戦後の一時期、乞われて富士通社長に就任し、類稀なリーダーシップを発揮しつつ会社の基盤を作る。完全な文系人間であったが、最先端技術の理解に努めた。
 

会社の基盤を整えた富士通は、国産コンピュータメーカーの先頭を走り、巨人IBMを猛烈に追いかけます。戦後、軍需省から一夜にして看板を掛け替えた通産省(現在の経産省)は、輸入制限と補助金や行政指導で、国策としてそれを強力に支援します。電電公社(現在のNTT)は、国民から吸い上げた独占の利益を、電電ファミリーと呼ばれた富士通を始め数社に惜しみなくばら撒きます。
 IBMの戦略やプロダクトは、徹底的に分析され、リバースエンジニアリングによる創造的模倣が行われました。IBM互換機ビジネスを展開していたアムダール社に富士通は支援の手を差し伸べ、最終的には買収しました。元IBM技術者のアムダール博士は、池田敏雄の親友になり、彼の葬儀の際には池田の妻にアムダール社の株を贈りました。
 当時の富士通を良く知る人によれば、IBMが何か新しい発表をニューヨークで行うと、日本の深夜に行われたその内容を企画課長以下は徹夜で分析し、翌早朝に全ての経営会議メンバーでその対応策を議論する、といった経営サイクルで動いていたそうです。追いつくべき明確なライバルに対して、トップが率先して猛烈に働く文化が、そこにはありました。
 FANUCは稲葉の強烈なマネジメントで生まれ、そして育ちました。彼の経営は、富士通の社内ベンチャーとして立ち上げた事業部時代に、岡田完二郎と尾身半左右という二人の天才の薫陶を得て鍛えられ、上司の小林と同僚のライバル池田に磨かれて完成しました。FANUCは、今や売り上げ4000億円を超え経常利益率40%近い数字の、ロボット工作機械業界におけるインテルとマイクロソフトを一緒にしたような、時価総額3兆円の会社となりました。
 ここでは、FANUCの経営や事業内容を細かく説明することは、止めておきます。ただ、以下に幾つかの印象的な「稲葉語録」を上げておきます。興味ある方は日経ビジネスオンラインのアーカイブ記事などをぜひ読んでみて下さい。


 

FANUCは親孝行な息子です。富士通は21億円の投資でFANUCを産み出しましたが、その経営には一切口を出しませんでした。そして2000年代ITバブルが弾けて以降業界構造転換が進む中、社内官僚が内向きの勢力争いに明け暮れる富士通には、もはやかつての勢いは有りません。順次、創業当時から保有する全ての株式を売却し1兆円近くの売却益を得て、かろうじて生きながらえる事が出来ました。
 それはかつて祖父である富士電器が、あるいは更に曾祖父の古河電工がたどって来た道でもあります。そして多くの日本の伝統的な大企業も、程度の差はもちろんありますが、同様に過去の蓄えを守りながら生きながらえているように見受けられます。

企業の高齢化は避けられないのか?

 果たして企業の高齢化は、人間と同様に避け難いことなのでしょうか? 日本人が経営する日本企業は、フロントランナーたり得ない、キャッチアップする目標を失うと活力を失ってしまうのでしょうか?
 筆者はそうではない、日本企業の強みである高質かつチームワークの得意な人材の厚みは、今も健在であると思います。事実、FANUCを始め沢山のフロントランナーとしてイノベーティブな成功企業も存在していますし、レクサスや高級カメラ等に代表される日本の擦り合わせ型ものつくりの強みは、今も揺らいでいないように思えます。
 それでは、池田敏雄がいないのでしょうか?
 決して、そのようなことは無いと思います。欧米を除き、これだけ多くのノーベル賞科学者を輩出している国は、日本だけです。もし日本が欧米国であったなら、日本人科学者の存在は遥かに認知されるようになり、ノーベル賞受賞者の数は10倍に上るはずであるというということを多くの指導的な科学者が言っています。ソニーやホンダを始めとして、多くの日本企業はオリジナリティのある商品を多く輩出して成長してのは、歴史が証明する通りです。

「戦前の高等教育を受けた世代」がすでに90歳

 課題はマネジメントの資質に尽きるのではないか、との思いを強くしています。天下泰平のユデカエル状況で、本来リーダーになるべきではない人間が間違ってリーダーになってしまう、そうなると、かつてのメインバンクのガバナンスも資金余剰で相対的に弱まり、株主やメディアのガバナンスが充分でない日本企業は、間違ったマネジメントの連鎖で長期低迷傾向に陥ってしまった、というのが筆者の見立てです。
 あるいは、間違ったとまでは言えなくても、環境の変化に追随できない前時代的なマネジメントを選択し、その結果、会社を環境変化に合わせて変えることが出来ずに長期低迷に陥る企業も、多く存在しています。
 この傾向は、戦前に高等教育を受け戦後の苦難の時代を乗り切った人材が第一線から退くに従い、顕著になって来たように思えます。1945年に25歳であった人間は、1990年には70歳になり、既に一線は退き影響力も徐々に減少して行きました。そして彼らが選んだ後継者も、2000年には引退を迎えます。
 戦後の高等教育を受けた人間が後継者を選ぶようになってから、日本企業全体の傾向として、早い時期から頭角を現し選抜されたリーダーが後継者として組織をマネジメントする傾向が徐々に減り、むしろ、運良く好業績を上げた後はひたすら守りに徹する様な「昇進することが自己目的化した企業人」達により、社長の座が争われるようになって来たように思えます。
 もちろん、私が話しているのは確率論です。繰り返しになりますが、現代でも岡田完二郎のような名経営者は沢山居るでしょう。ただ、多くのかつて優れていたが今は停滞する日本企業を個別に凝視してみると、後継者の選定を誤り、現代の池田敏雄のような人物を活かすことが出来ない後継者を選んでしまっている例は、多く存在するように思えます。


仕事をしている振りが上手な人ほど出世する文化に疲労困憊

 私の知人はIT関係のベンチャーを創業し、それなりの規模まで成長させましたが、縁あって超大手通信会社の買収を友好的に受け入れ、100%子会社となりました。そして1年、本来なら親会社の支援の元、野心的に事業を拡大するはずであった経営陣は、全て辞めてしまいました。彼らは、次のようなコメントを述べています。
 「やる気があり、仕事が出来る人が必ず辞めて、文書や管理表作りで仕事をしている振りが上手な人ほど出世する文化に疲労困憊した」
 良く知る有為な人物たちの言葉であり親会社も良く知っているので、私には大変に説得力があるコメントです。
 危機が会社を変える例は多くあります。最近良く知られているのは、やはり日産でしょうか。あるいは、日本電産に買収された会社が、軒並み高収益に転換しているのも、良く知られているところです。
 昭栄という、かつて村上ファンドが最初の標的にした会社が有りました。芙蓉グループに属する、かつての生糸製造者で駅前土地のオーナーとして殆んど眠っていたような会社は、村上ファンドの攻撃は退けた後アクティブな不動産事業者として目覚め、一時企業価値は6倍を超えるまでになりました(もっともその後、積極的な経営姿勢が2008年のミニバブル崩壊で痛手を負いましたが、それでも1.5倍程度の現状です)。


鉱山事業から大きなコングロマリットを産み出した力がある

 危機が来るまでは何もしないのが上策、という考え方も全く無い訳ではないでしょう。が、やはりそれではあまりに受け身で寂しいと思います。かつて鉱山事業から大きなコングロマリットを産み出した力を、改めて、地理的や分野的に未知の領域に活用する、ベンチャースピリットこそが求められているのではないでしょうか?
 多くの職業選択に臨む若者にとって、日本の大企業や官公庁は理論的に最も有利な選択です。なぜなら、ダウンサイドリスクは小さく、役員や、ひょっとして社長というアプサイドオポチュニティがある。1万円の宝くじで、賞金が最低1000万円から可能性として最高100億円まで有るものと、最低1000円で最高1000億円のものと、果たしてどちらを買うでしょう?
 そのような、期待値を計算して賢い選択が出来る若者を集める日本企業にとって、変革の時代をリードする正しいマネジメントを選ぶことが重要です。そして投資家や金融機関は、確率や期待値を超えた夢を描くベンチャースピリットを持つ起業家を支援することが、必要であると思います。
 言うや易く、行いは極めて難しいこの課題に、たとえその組織における一介の構成員であれ、エジプトの市民のように声を上げて行動することが必要な時代であると、筆者は考えます。
 「具体的には」、「例えば」、「現実は」、全て自分のフィールドにおける固定観念に基づいた議論へと引き込む思考停止の言葉です。日頃の固まった部分最適の世界で多用しているかもしれないこのような言葉の使用をたまには控え、部分最適で思考停止に安住することなく、各人持ち場で全力を尽くして行きましょう。

2011年3月16日水曜日

明治維新から140年超~日本は、再び新商品を産み出せるようになるか(上)

大手精密機械メーカーで事業部長に就任して初めての中期経営計画の立案に臨んでいる私の友人は、新たな成長事業の発掘という使命を与えられ苦悶しています。
 色々な議論に疲れているのでしょうか、週末のゴルフの帰り道、彼は少しアルコールの入った状態で語ります。  「当社の長い歴史の中、戦前の新規事業は“国産化”だった。軍が国策として国防の為の国産化を掲げ、ふんだんに開発費を投じてくれる。そして、当社の真面目な技術者たちは寝食を忘れ働き、当時の世界最先端レベルの製品を開発して軍に提供すると共に、その技術を応用した製品を一般市場に投入していった。戦後、軍事開発は無くなったが、先を行く欧米企業に製品の品質で追いつくという目標は明確であり、とにかく皆で真面目に寝食を忘れて働いていると何とかなった。
 そのうち、当社の特定部品が急に売れはじめたので、その用途を手繰ってみると、欧米で全く新しい技術革新に伴った製造機械の需要が発生していることが判った。当社の部品は、その製品にとって最も重要な構成要素であったわけだ。
 綿密な分析を行った上で当社はその製造機械マーケットに参入し、結果として大きなシェアを獲得した。そして今、我々は先輩たちの栄光の歴史を受け継ぎ新規事業を探しているが、なかなか見つからない。当社は今や世界でも有数の企業となったけど、改めて考えてみると、純粋に自分たちで新しい事業や製品を作ったことが無い。
 だから今は、どうやってそれを作ったらいいか、試行錯誤の毎日だ。過去の成功のパターンも探ってみたが、芽の出そうなネタは見つからない。たまたま私の前任者がM&Aをした新しい技術を持った海外のベンチャーがあるので、当面はこれに力を注いでいるところではあるが・・・」
 今や多くの日本企業は、それぞれの分野で先頭に立ち世界のマーケットで戦っています。コストでは中国企業に敵わず、デザインや品質でも韓国企業から急激に追い上げられている・・・私の友人の悩みは多くの日本企業における悩みではないでしょうか?

「私たちは再び、イノベーティブな新商品を産み出せるのか」

 今回は、前回までの日本というマクロな視点から、企業の歴史を取り上げ、よりミクロな視点から「私たちはいつから、イノベーティブな新商品を産み出せなくなったのか」ということを考えてみたいと思います。


日本の近代産業史


明治初期の日本

 明治初期、日本の輸出を支えたのは農林水産物です。中でも生糸、そして茶と米が大きな部分を占めていました。農林水産物の次に大きな割合を占めていたのは石炭と銅です。西欧の技術が取り入れられ生産性が向上した結果、明治中期以降はコンスタントに10%程度を稼いでいました。
 明治後期からは軽工業である繊維産業の発達に伴い、絹織物、綿糸、綿織物の輸出が増えて来ます。絹糸や絹織物の輸出先は米国を始め西欧諸国ですが、綿糸、綿織物の主たる輸出先は中国やインドなど産業革命に乗り遅れた国々です。そして工業製品が輸出されるようになると、国内経済の発展や人口増に伴う国内消費の拡大や輸出総額の増加に伴い、農林水産物の輸出割合は減少して行きました。
 明治初期、綿糸や綿織物から武器や船舶、機械製品まで、日本は多くの工業製品を輸入していました。そして日本の国内産業が成長して行くに従い、輸入は綿糸や綿織物から実綿、機械製品から鉄鉱石などの原材料に、徐々にシフトして行きました。
 極めて大雑把にいえば、明治初期の日本は現代の途上国のように1次産品である農林水産品や鉱物の輸出で外貨を稼ぎ、加工製品である綿織物や武器、機械を輸入していました。

明治中期から昭和へ

 中期以降は軽工業の発展に伴い、繊維原材料を輸入し繊維加工製品を輸出する国になりました。そして後期には、官営八幡製鉄所で鉄を作りその鉄で船や建築物、そして武器を製造するようになり、結果、鉄関連の製品輸入は減り原材料の輸入が増えたのです。
 昭和に入っても、日本の外貨を稼ぐ主力は繊維でした。国防と経済発展両立の国策として重工業化と国産化を急ぐ中、その資源と拠点を満州と南方に、そしてその市場を中国に求めました。結果、その途上で対抗するだけの充分な生産力と技術力を持たないまま、米国と利害が衝突した日本は無謀な太平洋戦争に突入したのです。
 そして戦後、それまでの蓄積や整備された1940年体制という社会システムを活かし、東西冷戦における地政学的位置にも恵まれた日本が、結果として重工業化を成し遂げ高度経済成長により欧米先進国と並ぶ豊かな国になった経緯は、前回までに述べてきた通りです。

日本140年の歴史と中国20年の歴史

 時代の環境は大きく異なっていますが、日本が明治維新以降140年以上かけて進めてきた軽工業から重工業に到る近代工業化を、中国は僅かこの20年の間に日本の技術や資本を活用しつつ、華僑ネットワークを使い溢れる世界の資本を上手に引き寄せ活用しながら、各分野同時並行的に猛烈なスピードで進めて来たといえます。
 かつて1800年代から1900年代にかけて、押し寄せる帝国主義諸国に良いように食い物にされた経験を、反面教師として充分に活用したのでしょう。
 明治維新からの日本近代産業史を手繰ると、それまでの伝統的技術の上に西欧から導入された技術が上乗せされた、幾つかの流れを定義することが出来ます。
(1)たたら製鉄や鍛冶、からくりなどの技術から官営八幡製鉄所、造兵廠、造船所から重工業に至る流れ。
(2)綿や絹織物、製糸等の技術から、繊維産業、織機の国産化、そして精密機械工業や自動車工業に至る流れ。
(3)鉱山や精錬等の技術から、鉱業、機械、土木、化学、電機、電線その他、数えきれないくらい多くの産業に至る流れ。
 これらの流れは、相互に重なりもつれ合いながら大きく発展して行きました。また、この3つの流れ以外にも、大きな金融の流れが有ります。また、小さな流れは無数に存在しています。

この中で、最も初期から発展して行ったのは鉱業からの流れです。換金性が高い優良な鉱山を所有していれば、稼いだ外貨で海外から開発法を始めポンプ、掘削、製錬、発送電、機械加工などおよそ考えられるありとあらゆる技術を購い、次にその技術を国産化して行くことで新しい事業を産み出すことが出来たのです。石炭と銅は、コンスタントに輸出の10%近くを占める外貨獲得の優等生でした。
 明治時代、日本は諸外国に土地の租借は認めず、鉱業権その他由来の権利を海外からの借金に対して抵当に出すことはしませんでした。また、鉱山で稼いだ資本家たちは、その富に安住するのではなく、次の産業を開発するための投資を行いました。近親主義や自己利益に走り「国を売る」指導層を持った結果、半ば植民地のようになってしまった国も多かった中、我々の先祖は富国強兵のスローガンを国として掲げ、決して安易な途に陥りませんでした。
 結果、鉱物資源という地球から人類への贈り物を土中より掘り出し続けることで、産業化の初期段階に於いて多様な技術を扱い価値の拡大再生産を行う鉱業は、我が国の中に幾つもの財閥、コングロマリットを産み出して行きました。資源に恵まれた多くの国々で出来なかったことを、我々の先祖は成し遂げたのです。

 

古河グループの歩みをケースに考えてみよう

 ここでは、そのようなコングロマリットの1つである古河グループに関して、その源流である古河鉱業からFANUCに至る流れを見ながら、そこに至る迄の成功要因、そして今日における課題を、歴史、産業、そして企業組織の観点から俯瞰しつつ、議論して行きたいと思います。


 

古河鉱業の祖は古河市兵衛、出は京都の商家であった者が高利貸の手先や勤務先の倒産など苦労しながら、才能もあったのでしょう、良い養子の口に恵まれました。ちなみに、江戸時代までの封建制度の社会に於いて、基本的に職業は世襲でしたが、実子が居ない場合は当然のこと、実子が居ても才能に欠ける場合にはその実子を他家に養子で出した上で、能力がある養子を娶ることは良く行われたようです。封建制度における知恵は、中々したたかです。
 市兵衛は、勤務先であった小野組が倒産した際、潔く会社の整理を行い自らの私財をすべて提供し無一文になりました。その後市兵衛は、それを見込んだ渋沢栄一の資金援助を得て、足尾銅山を始めとする幾つかの鉱山経営に乗り出し近代化に成功したことで古河財閥を誕生させました。
 市兵衛は陸奥宗光にも大いに気に入られ、その二男を養嗣子として娶りました。そして、政党政治家として初の首相になった原敬は、抜群の政治的センスを活かし外務官僚に採用された後、古河の二代目社長に就任したその養嗣子古河潤吉に、同じく彼を引き立てた陸奥宗光の縁で請われ、その時期古河鉱業会社の副社長を務めていました。

同時に伊藤博文が設立した立憲政友会の初代幹事長にも就任していた彼は、その後西園寺内閣の内務大臣に就任したことで古河鉱業を離れます。
 当時、有為の人材は政産官の各領域でリボルビングドアを通して行き帰しつつ育っていたことが、このような例で良く判ります。
 今の日本ではこの政産官の壁が高く、最近は交流まで厳しく制限されるようになって来ています。この壁の弊害が、現代日本のリーダーシップにおける問題の主たる原因の1つであることを考えると、このような産官政の人材交流を積極的に進めて行くこと、一考の余地があると思われますが如何でしょう?


合併で生まれた古河電気工業

 1920年、古河鉱業が創業した幾つかの電線会社が合併し、古河電気工業が設立されました。新たな事業を自ら作るために分社する力が多くの子会社を生み、それが集約された結果です。現在、多くみられるような、徒に社長ポストや天下り先を作るだけの大企業の子会社とはダイナミズムが違います。
 そして、創業時からシーメンスとの取引関係の深かった古河鉱業とシーメンスの交渉を古河電気工業が引き継ぎ、1921年に古河の「ふ」とジーメンス(ドイツ語読み)の「じ」と両者の頭文字を取る形で、富士電機製造が東芝、日立、三菱電機に次ぐ重電機メーカーとして設立されました。
 ちなみに東芝の前身である芝浦製作所はGE、そして三菱電機はウェスティングハウスと提携関係にありました。これらの提携関係の下で、日本企業は供与された見返りに多額のロイヤリティや配当を支払いながら、ひたすらキャッチアップに努め、それは第2次世界大戦後、一定の時期まで続きました。そして今、ウェスティングハウスは東芝の子会社でGEの主たる提携相手は日立です。
 さて当時、シーメンスは日本に深く事業基盤を築いていましたが、シーメンス事件でその基盤は大きく揺らいでいました。更には、第一次世界大戦で敗戦国であったこともあり、日本における立場が苦しかったのでしょうか、シーメンスは1923年に10:3での合弁会社として富士電機を設立する時点で多くの事業を譲渡したのに次ぎ、1925年にはその日本における電話事業を富士電器に譲渡しました。
 そして、1935年には、富士電器の通信機部門が独立し、富士通信機製造(現在の富士通)が設立されました。新たな事業を産み出す力が、内部から強く働いた結果です。また、戦争に向かう日本に於いて、通信機やレーダー、計算機といった軍事戦略的な電子技術は極めて重要であり、富士通はそれを担う重要な軍需企業でもありました。
 戦後の富士通では、多くの軍事関係のビジネスと技術や設備を失いました。しかし、若くて優秀な日本復興の希望を抱く技術者を中心にした社員が残りました。
 そして彼らは、その再建の中で、幾つかの極めて戦略的な決断を行ったのです。(後編に続く)