色々な議論に疲れているのでしょうか、週末のゴルフの帰り道、彼は少しアルコールの入った状態で語ります。 「当社の長い歴史の中、戦前の新規事業は“国産化”だった。軍が国策として国防の為の国産化を掲げ、ふんだんに開発費を投じてくれる。そして、当社の真面目な技術者たちは寝食を忘れ働き、当時の世界最先端レベルの製品を開発して軍に提供すると共に、その技術を応用した製品を一般市場に投入していった。戦後、軍事開発は無くなったが、先を行く欧米企業に製品の品質で追いつくという目標は明確であり、とにかく皆で真面目に寝食を忘れて働いていると何とかなった。
そのうち、当社の特定部品が急に売れはじめたので、その用途を手繰ってみると、欧米で全く新しい技術革新に伴った製造機械の需要が発生していることが判った。当社の部品は、その製品にとって最も重要な構成要素であったわけだ。
綿密な分析を行った上で当社はその製造機械マーケットに参入し、結果として大きなシェアを獲得した。そして今、我々は先輩たちの栄光の歴史を受け継ぎ新規事業を探しているが、なかなか見つからない。当社は今や世界でも有数の企業となったけど、改めて考えてみると、純粋に自分たちで新しい事業や製品を作ったことが無い。
だから今は、どうやってそれを作ったらいいか、試行錯誤の毎日だ。過去の成功のパターンも探ってみたが、芽の出そうなネタは見つからない。たまたま私の前任者がM&Aをした新しい技術を持った海外のベンチャーがあるので、当面はこれに力を注いでいるところではあるが・・・」
今や多くの日本企業は、それぞれの分野で先頭に立ち世界のマーケットで戦っています。コストでは中国企業に敵わず、デザインや品質でも韓国企業から急激に追い上げられている・・・私の友人の悩みは多くの日本企業における悩みではないでしょうか?
「私たちは再び、イノベーティブな新商品を産み出せるのか」
今回は、前回までの日本というマクロな視点から、企業の歴史を取り上げ、よりミクロな視点から「私たちはいつから、イノベーティブな新商品を産み出せなくなったのか」ということを考えてみたいと思います。明治初期の日本
明治初期、日本の輸出を支えたのは農林水産物です。中でも生糸、そして茶と米が大きな部分を占めていました。農林水産物の次に大きな割合を占めていたのは石炭と銅です。西欧の技術が取り入れられ生産性が向上した結果、明治中期以降はコンスタントに10%程度を稼いでいました。明治後期からは軽工業である繊維産業の発達に伴い、絹織物、綿糸、綿織物の輸出が増えて来ます。絹糸や絹織物の輸出先は米国を始め西欧諸国ですが、綿糸、綿織物の主たる輸出先は中国やインドなど産業革命に乗り遅れた国々です。そして工業製品が輸出されるようになると、国内経済の発展や人口増に伴う国内消費の拡大や輸出総額の増加に伴い、農林水産物の輸出割合は減少して行きました。
明治初期、綿糸や綿織物から武器や船舶、機械製品まで、日本は多くの工業製品を輸入していました。そして日本の国内産業が成長して行くに従い、輸入は綿糸や綿織物から実綿、機械製品から鉄鉱石などの原材料に、徐々にシフトして行きました。
極めて大雑把にいえば、明治初期の日本は現代の途上国のように1次産品である農林水産品や鉱物の輸出で外貨を稼ぎ、加工製品である綿織物や武器、機械を輸入していました。
明治中期から昭和へ
中期以降は軽工業の発展に伴い、繊維原材料を輸入し繊維加工製品を輸出する国になりました。そして後期には、官営八幡製鉄所で鉄を作りその鉄で船や建築物、そして武器を製造するようになり、結果、鉄関連の製品輸入は減り原材料の輸入が増えたのです。昭和に入っても、日本の外貨を稼ぐ主力は繊維でした。国防と経済発展両立の国策として重工業化と国産化を急ぐ中、その資源と拠点を満州と南方に、そしてその市場を中国に求めました。結果、その途上で対抗するだけの充分な生産力と技術力を持たないまま、米国と利害が衝突した日本は無謀な太平洋戦争に突入したのです。
そして戦後、それまでの蓄積や整備された1940年体制という社会システムを活かし、東西冷戦における地政学的位置にも恵まれた日本が、結果として重工業化を成し遂げ高度経済成長により欧米先進国と並ぶ豊かな国になった経緯は、前回までに述べてきた通りです。
日本140年の歴史と中国20年の歴史
時代の環境は大きく異なっていますが、日本が明治維新以降140年以上かけて進めてきた軽工業から重工業に到る近代工業化を、中国は僅かこの20年の間に日本の技術や資本を活用しつつ、華僑ネットワークを使い溢れる世界の資本を上手に引き寄せ活用しながら、各分野同時並行的に猛烈なスピードで進めて来たといえます。かつて1800年代から1900年代にかけて、押し寄せる帝国主義諸国に良いように食い物にされた経験を、反面教師として充分に活用したのでしょう。
明治維新からの日本近代産業史を手繰ると、それまでの伝統的技術の上に西欧から導入された技術が上乗せされた、幾つかの流れを定義することが出来ます。
(1)たたら製鉄や鍛冶、からくりなどの技術から官営八幡製鉄所、造兵廠、造船所から重工業に至る流れ。
(2)綿や絹織物、製糸等の技術から、繊維産業、織機の国産化、そして精密機械工業や自動車工業に至る流れ。
(3)鉱山や精錬等の技術から、鉱業、機械、土木、化学、電機、電線その他、数えきれないくらい多くの産業に至る流れ。
これらの流れは、相互に重なりもつれ合いながら大きく発展して行きました。また、この3つの流れ以外にも、大きな金融の流れが有ります。また、小さな流れは無数に存在しています。
この中で、最も初期から発展して行ったのは鉱業からの流れです。換金性が高い優良な鉱山を所有していれば、稼いだ外貨で海外から開発法を始めポンプ、掘削、製錬、発送電、機械加工などおよそ考えられるありとあらゆる技術を購い、次にその技術を国産化して行くことで新しい事業を産み出すことが出来たのです。石炭と銅は、コンスタントに輸出の10%近くを占める外貨獲得の優等生でした。
明治時代、日本は諸外国に土地の租借は認めず、鉱業権その他由来の権利を海外からの借金に対して抵当に出すことはしませんでした。また、鉱山で稼いだ資本家たちは、その富に安住するのではなく、次の産業を開発するための投資を行いました。近親主義や自己利益に走り「国を売る」指導層を持った結果、半ば植民地のようになってしまった国も多かった中、我々の先祖は富国強兵のスローガンを国として掲げ、決して安易な途に陥りませんでした。
結果、鉱物資源という地球から人類への贈り物を土中より掘り出し続けることで、産業化の初期段階に於いて多様な技術を扱い価値の拡大再生産を行う鉱業は、我が国の中に幾つもの財閥、コングロマリットを産み出して行きました。資源に恵まれた多くの国々で出来なかったことを、我々の先祖は成し遂げたのです。
古河グループの歩みをケースに考えてみよう
ここでは、そのようなコングロマリットの1つである古河グループに関して、その源流である古河鉱業からFANUCに至る流れを見ながら、そこに至る迄の成功要因、そして今日における課題を、歴史、産業、そして企業組織の観点から俯瞰しつつ、議論して行きたいと思います。
古河鉱業の祖は古河市兵衛、出は京都の商家であった者が高利貸の手先や勤務先の倒産など苦労しながら、才能もあったのでしょう、良い養子の口に恵まれました。ちなみに、江戸時代までの封建制度の社会に於いて、基本的に職業は世襲でしたが、実子が居ない場合は当然のこと、実子が居ても才能に欠ける場合にはその実子を他家に養子で出した上で、能力がある養子を娶ることは良く行われたようです。封建制度における知恵は、中々したたかです。
市兵衛は、勤務先であった小野組が倒産した際、潔く会社の整理を行い自らの私財をすべて提供し無一文になりました。その後市兵衛は、それを見込んだ渋沢栄一の資金援助を得て、足尾銅山を始めとする幾つかの鉱山経営に乗り出し近代化に成功したことで古河財閥を誕生させました。
市兵衛は陸奥宗光にも大いに気に入られ、その二男を養嗣子として娶りました。そして、政党政治家として初の首相になった原敬は、抜群の政治的センスを活かし外務官僚に採用された後、古河の二代目社長に就任したその養嗣子古河潤吉に、同じく彼を引き立てた陸奥宗光の縁で請われ、その時期古河鉱業会社の副社長を務めていました。
同時に伊藤博文が設立した立憲政友会の初代幹事長にも就任していた彼は、その後西園寺内閣の内務大臣に就任したことで古河鉱業を離れます。
当時、有為の人材は政産官の各領域でリボルビングドアを通して行き帰しつつ育っていたことが、このような例で良く判ります。
今の日本ではこの政産官の壁が高く、最近は交流まで厳しく制限されるようになって来ています。この壁の弊害が、現代日本のリーダーシップにおける問題の主たる原因の1つであることを考えると、このような産官政の人材交流を積極的に進めて行くこと、一考の余地があると思われますが如何でしょう?
合併で生まれた古河電気工業
1920年、古河鉱業が創業した幾つかの電線会社が合併し、古河電気工業が設立されました。新たな事業を自ら作るために分社する力が多くの子会社を生み、それが集約された結果です。現在、多くみられるような、徒に社長ポストや天下り先を作るだけの大企業の子会社とはダイナミズムが違います。そして、創業時からシーメンスとの取引関係の深かった古河鉱業とシーメンスの交渉を古河電気工業が引き継ぎ、1921年に古河の「ふ」とジーメンス(ドイツ語読み)の「じ」と両者の頭文字を取る形で、富士電機製造が東芝、日立、三菱電機に次ぐ重電機メーカーとして設立されました。
ちなみに東芝の前身である芝浦製作所はGE、そして三菱電機はウェスティングハウスと提携関係にありました。これらの提携関係の下で、日本企業は供与された見返りに多額のロイヤリティや配当を支払いながら、ひたすらキャッチアップに努め、それは第2次世界大戦後、一定の時期まで続きました。そして今、ウェスティングハウスは東芝の子会社でGEの主たる提携相手は日立です。
さて当時、シーメンスは日本に深く事業基盤を築いていましたが、シーメンス事件でその基盤は大きく揺らいでいました。更には、第一次世界大戦で敗戦国であったこともあり、日本における立場が苦しかったのでしょうか、シーメンスは1923年に10:3での合弁会社として富士電機を設立する時点で多くの事業を譲渡したのに次ぎ、1925年にはその日本における電話事業を富士電器に譲渡しました。
そして、1935年には、富士電器の通信機部門が独立し、富士通信機製造(現在の富士通)が設立されました。新たな事業を産み出す力が、内部から強く働いた結果です。また、戦争に向かう日本に於いて、通信機やレーダー、計算機といった軍事戦略的な電子技術は極めて重要であり、富士通はそれを担う重要な軍需企業でもありました。
戦後の富士通では、多くの軍事関係のビジネスと技術や設備を失いました。しかし、若くて優秀な日本復興の希望を抱く技術者を中心にした社員が残りました。
そして彼らは、その再建の中で、幾つかの極めて戦略的な決断を行ったのです。(後編に続く)
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